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[[1986年]](昭和61年)に来日したスペインの[[エレナ・デ・ボルボーン・イ・デ・グレシア|エレナ王女]]の歓迎レセプションに出席した時に徳仁親王と知り合う<ref name="mai19930119-s">1993年1月19日 毎日新聞「昨年5月に申し入れ 宮内庁長官、新事実明かす」</ref>。同年12月に、東宮御所で催された内輪の茶会(年越し会)に一家(妹の礼子、節子)で招かれる。出席者は外務省関係者やハーバード大学教授・[[広中平祐]]同夫人など学者家族と、[[明仁|皇太子明仁親王]]と[[皇后美智子|同妃美智子]]、徳仁親王を囲み約2時間歓談した。
 
[[1987年]](昭和62年)4月上旬、日英協会のパーティーで徳仁親王と再会する。4月下旬、[[高円宮家]]の宮務官から「お茶会」を電話で招待され<ref>『[[週刊文春]]』2012年10月25日号「ザ・プリンセス雅子妃物語」、[[文藝春秋]]。</ref>、[[赤坂御用地]]高円宮邸で茶会に雅子ほか数名のお妃候補が招かれた。雅子は高円宮同妃と徳仁親王と歓談、夕食を共にした。雅子の帰宅時間は午前1時を過ぎていたという<ref>講談社『美智子さま雅子さま 涙の日、深まる絆』(2012年・[[渡辺みどり]])126項</ref>。同年10月24日、東宮御所で夜の茶会が催され、皇太子徳仁、雅子、徳仁親王の学友で、旧皇族[[賀陽宮家]]の賀陽正憲と3時間ほど歓談した。
 
[[1992年]]8月16日、皇太子徳仁親王と柳谷謙介宅にて5年ぶりに再会する。平成5年の誕生日記者会見で、「警備なしという極めて無防備な状態ではあったわけですけれども、それをする価値は十分にあったと…思っています」と述べている<ref>{{Cite web |url=http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/02/kaiken/kaiken-h05az.html|title=皇太子殿下お誕生日に際し(平成5年) |publisher=宮内庁 |accessdate=2015-12-18}}</ref><ref>光文社『FLASH』1993年1月26日号</ref>。「[[鴨場]]での[[デート]]」も話題になった。柳谷が最説得に乗り出すとともに、皇太子徳仁親王から電話での説得が行われており、11月中旬、雅子自身結婚のことで悩んでいたため、外務省を体調不良で10日ほど欠勤する<ref>『美智子さまから雅子さまへ-プリンセスへの道』(河原敏明・1993年)</ref>。同年12月12日に、皇太子徳仁親王からの求婚を受諾している<ref name="mai19930119-s"/>。