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== 中濃攻略戦 ==
=== 加治田衆調略 ===
永禄8年(1565年)には、美濃佐藤氏国人衆で美濃において有力勢力である美濃要所でもある[[加治田城]](飛騨と郡上更に東濃への重要拠点)城主[[佐藤忠能]]・[[佐藤忠康|忠康]]父子と加治田軍([[加治田衆]])が[[梅村良澤]]の説得に応じ、[[丹羽長秀]]の内工作の働きもあり、梅村良澤を使者として信長に寝返る。加治田衆の内は、尾張統一、美濃攻略の礎となり、斎藤氏の弱体化に繋がった。
 
=== 犬山城・烏峰城攻城戦 ===
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== 中濃三城盟約 ==
[[関城 (美濃国)|関城]]主[[長井道利]]が策を考え、[[堂洞城]]主[[岸信周]]と、加治田城(却敵城)佐藤忠能を佐藤紀伊守による中濃三城において同盟([[中濃三城盟約]])を結ぶ(この時、忠能の娘八重緑を岸信房の養女とし人質として送られた)。これにより、織田軍中濃攻略を阻止し、斎藤龍興本陣が駆けつけ、織田軍を一掃し、尾張侵攻まで目論む。
 
=== 岸信周(岸一族)調略 ===
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=== 加治田・堂洞合戦(堂洞合戦) ===
中濃要害堂洞城で長井道利と岸信周は信長軍を堂洞城へ誘い込み、佐藤忠能の加治田衆と長井道利の関軍、援軍の斎藤龍興本陣により、壊滅を図る([[加治田・堂洞合戦]]([[堂洞合戦]]))。信長本隊は兵を北へ進め、岸信周が守る堂洞城を包囲する。しかし、佐藤忠能と加治田軍(加治田衆)が織田軍へ内する。それを知った岸方は、人質の八重緑を串刺しにし、長尾丸に磔にする。その夜、加治田軍の古参である[[西村治郎兵衛]]が八重緑亡骸を岸方から闇討ちにより奪い取り、龍福寺へ葬る。加治田衆は八重緑の敵討ちに燃える。
 
関城長井道利と堂洞城岸信周は逆に加治田城を包囲し、龍興軍率いる本陣が到着後に中濃要所である加治田城(加治田衆)を占拠する作戦に出る。信長は加治田衆から連絡があり、援軍の織田軍は直ちに信長自ら総大将として指揮し、堂洞城合戦に赴く。味方であり、藤原氏の一族である加治田衆が寝返った中、岸一族は、孤軍奮闘した。長井道利は織田軍の活発な動きにより軍が堂洞城へ達せず、本陣の龍興は後に参陣予定であった。堂洞城は多勢に無勢で力尽きたが、岸信周は18度も敵兵を追い返した後、本丸に引き奥方と共に自刃した。堂洞城は焼払われ落城後、廃城となる(後に加治田・兼山合戦において、森長可軍の本陣として使用される。現在でも天守付近より焼けた米が出土する)。
 
=== 関・加治田合戦 ===
[[斎藤道三]]の末子・[[斎藤利治]]が名目で堂洞城を攻略し、信長率いる織田軍は、加治田城御殿屋敷で一泊し、翌日岸方の首実検を行い、犬山へ帰陣した。その途中、長井道利率いる関軍と到着した斎藤龍興率いる本隊三千人以上織田軍に襲いかかった。信長軍は手勢七百人足らずで、岸軍の働きにより、怪我人や死傷者が出ていて戦える状態ではなかった。織田軍は広野へ退き、龍興と対陣。かかるようにみせかけて、怪我人を逃し、最後は自ら急ぎ引き上げた。斎藤軍は織田軍があっけなく退却したので、斎藤龍興本陣は[[岐阜城]]へ戻る。その後、長井道利は援軍の一部を率いて加治田城へ攻め寄せる構えをみせた。[[関・加治田合戦]]により加治田城攻城戦において大軍をもって長井道利関勢が加治田城へ斎藤軍援軍の一隊と共に一丸となって攻めてかかった。織田軍援軍の利治が総大将と加治田衆である[[湯浅新六]]の活躍により、優勢であった斎藤勢は突き崩され敗退する。利治の要請により加治田軍と織田軍は東・西・南から関城を直ちに攻め、長井道利はその後関城攻城戦において砦を謀略と伏兵で何とか防いだのだが、遂に龍興援軍が間に合わず退去し、関城を奪われ中濃地方も信長の勢力圏に入ることとなる。後[[西美濃三人衆]]も利治がいる織田軍に内する。
 
== 中濃攻略後(合戦後) ==
*織田軍が中濃攻略を行ったことにより、斎藤氏は東濃との連絡がつかなくることと、武田氏との同盟も無意味になり、斎藤氏の勢力は西美濃のみとなって、た。その西美濃でも龍興方斎藤氏に離反し、西美濃三人衆が織田方に味方する。
*信長は斎藤利治を加治田城主とし、利治は信長が[[本能寺の変]]で死去するまで、信長、次いで後継者である信忠の家臣として活動する。
*斎藤龍興は加治田衆の内を筆頭に家臣に裏切られ、勢力が衰退し、岐阜城を織田軍に攻略され滅ぶ。
 
== 参考文献 ==