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[[1679年]]、ガルダン・ハーンは[[ハミ]]と[[トルファン]]を征服し、翌年([[1680年]])に[[カシュガル]],[[ヤルカンド]],[[ホータン]]などの[[オアシス都市]]を征服して、[[東チャガタイ・ハーン国|東チャガタイ・ハーン家]]の一族と[[黒山党]](イスハーキーヤ)の[[ホージャ]]をイリに幽閉した。一方で[[白山党]](アーファーキーヤ)のホージャを代官としてヤルカンドに据えて、毎年莫大な貢納を取り立てた。翌年([[1681年]])からは毎年西方の[[中央アジア]]に遠征し、[[カザフ]]人と[[キルギス人]]を攻め、[[1684年]]には[[タシュケント]]と[[サイラム]]を、[[1685年]]には[[アンディジャン]]に遠征し、瞬く間に中央アジアを征服していった。
[[1687年]]、モンゴルの[[ハルハ]]部において、トシェート・ハーンとジャサクト・ハーンの内紛が起き、ジャサクト・ハーンであるチェングン(成袞)がガルダン・ハーンを頼ってジュンガル部に向かったところ、トシェート・ハーンであるチャグンドルジ(察琿多爾済)に追いつかれて殺され、ジュンガル部から出動したガルダン・ハーンの弟もチャグンドルジによって殺された。翌年([[1688年]])、ガルダン・ハーンは3万の兵を率いて
[[1690年]]、ガルダン・ハーンは2万の兵を率いて[[北京]]北方の[[ウラーン・ブトン]]で清朝と衝突し、激しい射撃戦となった。やがてダライ・ラマ5世の摂政が派遣した高僧が来て仲裁に入ったため、清軍と交渉している間にジュンガル軍は漠北に撤退した。同じ頃、兄センゲの子である[[ツェワンラブタン]]がガルダン・ハーンに反旗を翻し、ジュンガル部の本拠地である[[イリ地方]]と[[タリム盆地]]を支配して康熙帝と連絡を取り合った。
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