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一方、竹中は、6月21日に田岡邸大広間で舎弟23人、若中46人と固めの盃を執り行なった。23日には執行部の陣容を整え、[[山口組若頭]]に[[中山勝正]]([[豪友会]]会長)、舎弟頭に[[中西一男]]([[中西組]]組長)、筆頭[[若頭補佐]]兼本部長に[[岸本才三]]([[岸本組]]組長)を据えた。若頭補佐には[[渡辺芳則]]([[山健組]]二代目組長)、[[宅見勝]]([[宅見組]]組長)、[[嘉陽宗輝]]([[嘉陽組]]組長)、[[桂木正夫]]([[一心会]]会長)、[[木村茂夫]]([[角定一家]]総長)を起用している<ref>自らの組だった[[竹中組 (姫路)|竹中組]]は実弟の[[竹中武|武]]が継ぎ、武は直系若衆になった。更に同じ実弟の[[竹中正|正]]を竹中組相談役に就けた。</ref>。
 
山口組襲名式は、7月10日に[[徳島県]][[鳴門市]]の「観光ホテル鳴門」で執り行なわれた<ref>後見人は[[稲川聖城]]([[稲川会]]会長)。取持人は[[諏訪健治]]([[諏訪一家]]総長)。推薦人は[[堀政夫]]([[住吉連合会]]=後の住吉会会長)と[[図越利一]]([[会津小鉄会]]=後の会津小鉄会長)・[[大野鶴吉]]([[大野一家]]総長)・[[辻野嘉兵衛]]([[今西組]]組長)・[[松浦繁明]]([[松浦組]]組長)・[[平田勝市]]([[大日本平和会]]会長)・[[平井龍夫]]([[森会]]会長)・[[草野高明]]([[草野一家]]総長)。見届け人は翁長良宏(三代目[[旭琉会]]会長)。媒酌人は[[津村和磨]]([[大野一家]][[義信会]]会長)。霊代は、[[田岡文子]]だった。</ref>。
 
== 山一抗争 ==