「ジョン・クロムウェル (俳優)」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし |
m編集の要約なし |
||
53行目:
ハリウッドが本格的な[[トーキー]]時代を迎えつつある1929年に、[[パラマウント映画]]と契約。トーキーであるコメディ映画『ダミー ''[[:en:The Dummy (1929 film)|The Dummy]]''』に脇役として出演し映画デビューするとともに、[[:en:A. Edward Sutherland|A・エドワード・サザーランド監督]]と[[:en:Nancy Carroll|ナンシー・キャロル]]の出演する『恋愛行進曲 ''[[:en:Close Harmony (1929 film)|Close Harmony]]''』『踊る人生 ''[[:en:The Dance of Life|The Dance of Life]]''』の共同監督を行う。さらに同年、[[:en:George Bancroft (actor)|ジョージ・バンクロフト]]主演の『巨人''[[:en:The Mighty (1929 film)|The Mighty]]''』で初めて単独監督を務める。1933年に当時[[:en:Merian C. Cooper|メリアン・C・クーパー]]が率いる[[RKO]]と契約。1934年、[[ベティ・デイヴィス]]が主演し、彼女を不動のスターとした『[[痴人の愛 (1934年の映画)|痴人の愛]]』の監督を務める。1936年以降は、[[デヴィッド・O・セルズニック]]の独立プロダクションや他の映画会社の作品を手がけ幅広く活動する。特に、1944年の『[[君去りし後]]』は、第二次世界大戦の最中に『[[若草物語]] 』を当時の状況に合わせてセルズニックが翻案・製作した家庭メロドラマであり、ヒット作となった。また、1944年から1946年にかけて、現在の[[全米監督協会]] (当時の「映画監督組合''Screen Directors Guild''」)の会長を務めている。
しかし、1951年から1958年まで[[ハリウッド・ブラックリスト]]に載せられたことにより、その後の映画活動が大きく制限されてしまうことになった。7年間の空白の後、1958年に『''[[:en:The Goddess (1958 film)|The Goddess]]''』で再び監督をつとめるが、1961年の『''[[:en:A Matter of Morals|A Matter of Morals]]''』を最後にメガホンを再びとることはなかった。1952年以降の映画監督作品は、前記2本を含め、わずか3本にとどまっている。
1952年には舞台『''Point of No Return''』で俳優として[[トニー賞]]を受賞している。また、[[ロバート・アルトマン]]の1977年の『三人の女』、1978年の『ウエディング』に彼の妻、ルース・ネルソンと共に出演している。なお、映画俳優として出演したのは10本程度にとどまり(ただし、カメオ出演は数多くある)、映画監督としては50本近くの作品に携わっている。
|