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1950年秋から一年間、[[春日大社]]、[[四天王寺]]に赴き易学を講義、1951年9月、天台宗総本山延暦寺座主の直命により[[大阪府]][[八尾市]]中野村の[[天台院]]の特命住職となり西下する。天台院は当時檀家が30数軒の貧乏寺であったが、
[[天海]]大僧正の弟子、念海和尚による再興<ref group="注釈">「天台院小史 今春聽 1953」(東大阪新聞社『河内史談 第参輯』所収P18 には、「天和三(1683)年二月、竪者権大僧都法印念海といふ人が…再建した」とある。念海は寛永15(1638)年春、上野 寛永寺一山 三明院 賢海のもと得度、南光坊[[天海]]に従い比叡山麓 坂本 大覚寺で加行。坂本 滋賀院にて 天海から 三部灌頂 及び 瑜祇等密教の伝法を受け、比叡山東塔の学頭寺院である 正覚院にて阿闍梨灌頂を修した。賢海示寂ののち 三明院 第二世として入山、嘗て天海の命に賢海が兼領していた諸寺も主管し江戸と上方を往還した。念海については、三河 神宮寺にも記録があり、『念海大和尚』「権大僧都法印念海者雖非当院住持当寺累代之住持皆悉潤於海師之息澤故記於此伝聞...念海法印慈眼大師之末弟而住持于武陽下谷坂本三明院今者養玉院云而兼帯山門坂本大学寺(坂本大覚寺)大坂天樹寺(聖龍山天鷲寺:[[最澄]]開創 [[後陽成天皇]]勅諚寺 [[空源]]再興 [[天海]]開基 [[賢海]]中興)...於山弁流冨於海見聞之衆人悉無不帰敬師平月向人談法華一乗與涅槃佛性...」念海坐像(仏師長五郎作 寛文十一 1671年)も現存する。《東京都品川区指定文化財「木造念海和尚像」旧金光山三明院大覚寺=[[養玉院]]蔵)》。天和元(1681)年、堺 光澤寺を再興し、天和二(1682)年、江戸・養玉院を勇退し西下、大坂 天鷲寺に住した。河内国若江郡・天台院の再興はその翌年の天和三(1683)年である。元禄三(1690)年七月七日寂遷化 六十八歳。墓処は近江長浜、善光寺近江別院・豊学山東雲寺(北城金光山支院として[[空源]]による中興開山)、また天台院再興と同時期、和泉国樽井に開基上人として創建した 南漸寺(現 南泉寺)にも供養塔が現存している。</ref>、無畏智道上人止住隠棲<ref group="注釈">文化四(1807)年七月八日寂 春秋百六歳</ref>など、歴代、高僧の隠居寺であった。[[保田與重郎]]が 『春聽上人』としての西下を促した。與重郎が後に著した『現代畸人伝』に当時の消息が綴られている。同時期、[[河上徹太郎]]、[[伊藤整]]らが大正期「新感覚派」作家の雄としての今東光を回想、[[高見順]]も『昭和文学盛衰史』にその文壇史的位地を特筆した。天台院主として春聽上人は1952年5月1日、東光山(紫雲山)天台院に晋山した。沼田に囲まれた河内八尾の鄙びた小庵への入山であったが、[[春日大社]]宮司・[[水谷川忠麿]]([[近衛文麿]]・[[近衛秀麿]]の弟、夭折した[[近衛直麿]]の兄)、四天王寺管長・出口常順の列座、[[雅楽]]伶人による雅楽の演奏、職衆による[[声明]]という古式による入山の儀に村人は度肝を抜かれ、「オイ。ワレ。こんどの和〈オ〉っさん(和尚さんの意)。エライ、ヤマコ張っとる《ペテン師》やナイケ。」などと噂し合ったという。摂河泉、畿内古代道を渉猟し、檀家信徒と接する衆生教化の日々の中に、河内人の気質、風土、歴史への理解を深くし、東大阪新聞社『河内史談 第参輯』1953 に「天台院小史」を執筆。「河内はバチカンのようなところだ」「歴史の宝庫だ」と、作家魂が蘇生、個人雑誌『東光』を刊行した。のちに文壇復帰のきっかけとなる「[[闘鶏]]」を取材執筆しながら、「ケチ(吝嗇)・好色・ド根性」<ref group="注釈">短篇集『闘鶏』(角川書店刊 解説[[平野謙]])あとがきで、河内人は「下劣で、ケチン坊で、助平で、短気で、率直で、つまりは僕自身に似た人物」と書いている。</ref>といった河内者の人間臭と、土俗色の色濃い河内地方の方言や習俗に親しんでいった。のちに[[エンターテイメント]]作家としての代表作のひとつとなる『悪名』の主人公、朝吉親分のモデルとなった、岩田浅吉との出会いもこのころであった。
===文壇復帰===
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