「阿部正権」の版間の差分
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[[武蔵国|武蔵]][[忍藩]]主[[阿部正由]]の次男として生まれる。幼名は銕丸。文化5年([[1808年]])、3歳の時に父が死去し[[家督]]を相続した。正権は病弱であったため、藩政は実母・泰寿院と本家筋の[[備後国|備後]][[備後福山藩|福山藩]]主・[[阿部正精]]が後見した。
文化13年([[1816年]])4月に、[[美濃国]]・[[伊勢国]]・[[尾張国]]および[[東海道]]にある諸河川の修復助役を命じられ、この普請経費を工面するために藩内の村々へ[[御用金]]を賦課した。その結果、以前から逼迫していた藩財政が益々悪くなり、藩士や領民の生活までも苦しくなった。[[文政]]元年([[1818年]])には藩内の足軽65人が諸手当の支給、借金返済の延期などを要求して江戸藩邸に強訴する事件が起きている。
[[文政]]5年([[1822年]])、幕府より忍藩、[[伊勢国|伊勢]][[桑名藩]]、[[陸奥国|陸奥]][[白河藩]]の三方国替えの幕命が出され、阿部家は183年にわたって統治した忍より白河に移封されることになった。翌文政6年(1823年)、正権はそのさなかに死去した。将軍家への[[御目見]]が済まないうちに死去したため、官位はない。なお、家督は従兄の[[阿部正篤|正篤]](松平頼興の子)が相続した。▼
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==参考文献==
*工藤寛正編『江戸時代全大名家事典』東京堂出版、2008年。
{{忍藩主|阿部氏|9代|1808年 - 1823年}}
{{白河藩主|阿部氏|初代|1823年}}
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{{デフォルトソート:あへ まさのり}}
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