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=== 初期(1949年 - 1964年) ===
[[大阪市立大学]]助教授として教鞭を執るかたわら、本格的に作曲活動に入り、日本で[[現代音楽]]の[[作曲家]]としての地歩を築いた時期にあたる。この時期は、ヨーロッパの[[前衛]][[音楽]]の影響下で創作をおこないながら、自身の作曲家としての「表現」を模索した時代であると言える。
 
関西にありながら松下が作曲家として日本の作曲界に認知されたのは、[[1958年]]に「二十世紀音楽研究所主催第2回現代音楽祭作曲コンクール」において「八人の奏者のための《室内コンポジション》」が第1位を獲得してからである。このとき同着の第1位が[[武満徹]]であった。
 
この時期の作風は、当時のヨーロッパ前衛音楽の傾向を反映し、厳格なセリーによる音楽の「時間」「音色」「音域」の構造化が行われていが、その響きは「音の濃度・濃淡」の移ろいが精緻に描き出される。海外での音楽祭の入賞など、松下の名が国際的に認知され始めるのがこの時期である。著書には「[[リュク・フェラーリ]]が僕の音響を聴いて、すぐスタジオを出て行った」<ref>著書・天地有楽から</ref>とあり、ケルン派の電子音に対するフェラーリの拒絶がすでに日本語で書かれているのは特筆される。
 
題名から注釈まで[[フランス語]]で書かれた作品もあり、ブーレーズに見られたソノリティの純度を、沈黙により高めていったことは間違いがない。だが、厳格なセリエリストであったわけではなく、用いられる音列の順番が途中で変更されている例もある。ソプラノと室内アンサンブルのための音楽のソプラノパートは、意味を持たない母音と子音の組み合わせのみで書かれており、総数があらかじめ決定されている、などGottfried Michael Koenig[[ゴットフリート・ミヒャエル・ケーニヒ]]のケルン楽派に肉薄する音響を示している。その傍らで[[打楽器]]パートに[[邦楽器]]を投入するなどの異国趣味も忘れられてはいない。ピアノの最高音域の弦楽器のハーモニクスは現在ほぼ常識のように扱われているが、この先駆者が松下である。
 
=== 中期(1965年 - 1980年) ===