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=== 生い立ち ===
[[File:Itagaki Taisuke Kochi01bs3872.jpg|thumb|200px|生誕地([[高知県]][[高知市]])]]
[[天保]]8年[[4月17日 (旧暦)|4月17日]]([[1837年]][[5月21日]])、[[土佐藩]][[上士]]([[馬廻]]格・300[[石高|石]])[[乾正成]]の嫡男として、高知城下[[高知中島町|中島町]](現 [[高知県]][[高知市]][[本町 (高知市)|本町]]通2丁目)に生まれた。なお、乾家は[[武田信玄]]の重臣であった[[板垣信方]]を祖とした家柄である(退助の復姓については後述)。[[後藤象二郎]]とは竹馬の友である。同じ土佐藩の[[中岡慎太郎]]とは交誼があったが、[[坂本龍馬]]とは生前に一度も出会ったことは無い<ref>『坂本龍馬とその一族』[[土居晴夫]]著、[[新人物往来社]]、1985年(昭和60年)。『坂本龍馬の系譜』土居晴夫著、新人物往来社、2006年(平成18年)。[http://www.geocities.jp/tajima73/tosayamamoto.html]</ref>。
しかし龍馬の[[木戸孝允|桂小五郎]]宛ての書簡には乾退助を紹介する記述があり、また退助も龍馬の脱藩の赦免に奔走するなど、互いに面識はあったようである<ref group="注">明治以降、板垣家と坂本家は親戚関係となる。また[[千葉さな子]]が開業した鍼灸院には退助自ら患者としてでなく、自由党員の[[小田切謙明]](のちに無縁仏となったさな子の身元引受人となる)をはじめ数多くの患者を紹介するなど、龍馬の縁者には何かと面倒をみている。</ref>。
上士と[[下士]]の身分が確立されていた土佐藩の中で[[谷干城]]や[[佐々木高行]]と同じく、下士に対し寛大だった{{Refnest|group="注"|退助が神田村に蟄居中、樵(きこり)や農夫たちと[[身分]]の隔てなく親しく交わり、それが後年、庶民の立場に立った[[自由民権運動]]に目覚めるきっかけとなったことや、免奉行(税務官)時代に農夫たちが、退助に平伏して話をするのを見て、'''万民が上下のへだたりなく文句を言ったり、議論したりするぐらいがちょうど良い'''。私にも遠慮なく文句があれば申し出てくださいと語った話など、下士や農民たちに対しても寛大であった(当時としては変人とみられることもあった)逸話は豊富である。そえがゆえに退助が[[自由民権運動]]に没頭し全国を遊説していた頃には'''庶民派'''として大衆の人気を博した。<ref>『板垣退助君伝 第1巻』栗原亮一、宇田友猪著、[[自由新聞|自由新聞社]]、[[1893年]]、『自由党史』</ref>}}。