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1958年(昭和33年)5月に撮影が開始され、製作日数100日、製作費9000万円として、8月中の完成を予定していた<ref name="発達史">[[#田中1980|田中1980]]、p.305</ref>。しかし、撮影後半では天候不良のため、[[富士山]]麓でのロケーション撮影は快晴を待ってロケ隊を3ヶ月も待機させた<ref>[[#都築2010|都築2010]]、p.297</ref>。それらの理由で撮影日数と予算が超過し、結果、撮影日数は200日かかり、製作費も1億5000万円にまで膨れ上がった<ref name="発達史"/>。封切り前夜には、製作担当の[[藤本真澄]]がこの責任を取って進退伺いを提出するという騒動が起きている<ref>[[#田中1980|田中1980]]、p.304</ref>。その後、東宝は一連の予算的なリスクを負担してもらうために黒澤側にプロダクションの設立を要求することになる。
 
ヒロインの雪姫役には全国から4000人もの大勢の応募者が集まったが候補者は見つからず<ref>『芸能画報』1958年2月号、国際写真通信社、1958年、p.33</ref>、全国の東宝系社員にも探させて、ようやく社員がスカウトした[[文化女子短期大学]]生の[[上原美佐 (1937年生)|上原美佐]]が抜擢された。上原は素人であったため、撮影前に[[馬術]]と[[剣道]]を習い、撮影中はそのつど黒澤が演じてみせ、それに従って演じた。
 
劇中、火祭りの歌の歌詞は本作品の舞台である戦国時代をやや遡る室町時代の成立である『[[閑吟集]]』の「なにせうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ」に由来する。この歌集に先行する類似の文句としては、室町幕府初代将軍[[足利尊氏]]の清水寺への請願文の書き出しとして有名な「この世は夢のごとくに候」がある。