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Takanoha54 (会話 | 投稿記録)
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'''間部 詮衡'''(まなべ あきひら)は、[[江戸時代]]中期の[[旗本]]。[[間部詮房]]・[[間部詮之|詮之]]の実弟。[[徳川家宣]]・[[徳川家継|家継]]に仕え、本家から独立し[[赤坂間部家]]<ref>「末家」ともいう。また、分家の名称は屋敷地がはじめ[[赤坂]]氷川台に屋敷があったことにちなむ。また「末家」ともよばれた。</ref>という分家を興した。
 
==生涯==
[[延宝]]8年([[1680年]])、[[西田清貞]]の四男として生まれる。[[元禄]]7年([[1694年]])から[[甲府藩]]主、徳川綱豊([[徳川家宣|家宣]])の[[小姓]]を務める。[[宝永]]元年([[1704年]])、家宣[[江戸城]]西の丸入りするもない、兄たちと同じく幕臣に取り立てられ、西丸小姓った
幕臣になってから城内では、公的な役職に就いていない侍講の[[新井白石]]と、詮房および家宣との間の取次役を果たしたとされ務める{{sfn|深井雅海|1991|p=199}}{{Sfn|福留真紀|2006|p=201}}。
 
幕臣になってからは、公的な役職に就いていない[[新井白石]]と、詮房および家宣との取次役を果たしたとされる{{sfn|深井雅海|1991|p=199}}{{Sfn|福留真紀|2006|p=201}}。
 
その後、兄詮之と同じく出世し、[[正徳 (日本)|正徳]]5年([[1715年]])には1550石知行の[[旗本]]になった。
正徳6年([[1716年]])、7代将軍[[徳川家継]]の死によって職を解かれ[[旗本寄合席|寄合]]に列するした。[[享保]]10年([[1725年]])、死去。享年45歳。遺領と家督は長男の[[間部詮長|詮長]]が継いだ。[[赤坂間部家]]は[[明治維新]]まで存続したする{{sfn|竹内信夫|1998|pp=648}}。
 
==略歴==
※日付は旧暦
*[[元禄]]7年([[1694年]])、[[甲府藩]]主[[徳川家宣|徳川綱豊]]の[[小姓]]になり[[蔵米]]250俵支給。
*[[宝永]]元年([[1704年]])12月5日、西丸小姓。
*宝永2年([[1705年]])
**3月18日、蔵米200俵加増。
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*宝永6年([[1709年]])西の丸から本丸に移る。
*宝永7年([[1710年]])
**1月13日、[[伊豆国]][[君沢郡]]・[[田方郡]]の内500石加増。
**11月12日、[[伊賀国|伊賀守]]。{{sfn|間部家文書刊行会|1980|p=49}}
*宝永8年([[1711年]])6月27日、伊賀守から[[淡路国|淡路守]]に改名。{{sfn|間部家文書刊行会|1980|p=646}}
*[[正徳 (日本)|正徳]]2年([[1712年]])、落髪して引退するが翌年、職務に復帰{{sfn|竹内信夫|1998|pp=649}}。
*正徳3年([[1713年]])8月18日、秋田季成の娘との縁組が決定。同年12月4日、婚礼の式を終え。{{sfn|間部家文書刊行会|1980|p=142,651}}
*正徳5年([[1715年]])9月6日、[[三河国]][[宝飯郡]]の内300石を加増。合計1550石を知行。
*[[享保]]元年([[1716年]])、5月16日、[[旗本寄合席|寄合]]。
*享保4年([[1719年]])4月25日、娘が誕生。兄・詮房から祝儀として「御肴一種・御樽代」が詮衡夫妻と娘それぞれに贈られた。{{sfn|間部家文書刊行会|1980|p=511}}
*享保10年([[1725年]])8月26日、死去。