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Takanoha54 (会話 | 投稿記録)
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| 戒名 = 大忠院前羽林次将義山速證大居士
| 墓所 = 自證院
| 官位 = [[従四位]]上左近衛権少将・[[出雲国|出雲]]守、[[隠岐国|隠岐]]
| 幕府 = [[江戸幕府]] [[小姓]]並→[[高家 (江戸時代)|奥高家]]・高家肝煎
| 主君 = [[徳川綱吉]]・[[徳川家宣|家宣]]・[[徳川家継|家継]]・[[徳川吉宗|吉宗]]・[[徳川家重|家重]]
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[[大納言]][[押小路公音]]の次男として生まれる。生母は大納言[[河鰭実陳]]の女。
 
[[元禄]]15年([[1702年]])、17歳で京都より召し出される。この年の閏8月15日、五代将軍[[徳川綱吉]]に御目見し旗本となり、小姓並として[[切]]300俵を賜る。その際、曾祖父の[[三条西実条]]が[[前田玄以]](豊臣政権[[五奉行]]の一人、[[丹波亀山藩]]主)の娘を正室としていた縁により、武家名字である前田を名乗る。同年12月3日[[従五位]]下侍従・出雲守に叙任され、300石の加増を受けて、[[武蔵国]][[多摩郡]]内で600石を知行することになった。[[宝永]]元年([[1704年]])1月9日、武蔵国内で300石加増、宝永4年([[1707年]])1月9日には[[相模国]][[愛甲郡]]内で500石を加増され、計1400石の知行となる。
 
宝永6年([[1709年]])2月21日、[[高家 (江戸時代)|高家]]役に転役となり、[[隠岐国|隠岐]]守と改称([[延享]]2年([[1745年]])9月に再度出雲守に改称)。享保16年([[1731年]])10月28日高家肝煎役となる。[[延享]]2年(1745([[1745]])10月、九代将軍[[徳川家重]]の将軍宣下に付、京都へ御使となり、[[松平頼恭|松平讃岐守頼恭]]の差添役を務める。同年12月に従四位上左近衛権少将に昇進する。
 
宝永6年(1709年)より[[宝暦]]2年(1752([[1752]])4月13日に死去するまで、[[高家 (江戸時代)|高家]]役として務めた43年間の内、高家肝煎役を21年務め、京都御使、[[伊勢神宮]]、[[日光東照宮]]、[[滝山東照宮]]への将軍御名代など29回の御役を務めている。元禄15年(1702年)に五代将軍綱吉に仕えてから、六代[[徳川家宣|家宣]]、七代[[徳川家継|家継]]、八代[[徳川吉宗|吉宗]]、九代家重と歴代五人の将軍に仕えた玄長は、旗本として50年間を務め、67歳で没した。葬地は市ヶ谷[[自證院]]([[天台宗]])。
 
正妻は[[内藤政貞]]の養女・[[内藤政醇|内藤播磨守政醇]]の義姉。養子[[前田房長|房長]](実父[[松平康郷 (松井松平家)|松平金七郎康郷]])ら一男一女あり。
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生家の[[押小路家]]は[[右大臣]][[三条西実条]]の孫である押小路公音([[押小路家]]の祖。初名は公起)が創設した[[三条西家]]の分家で、公音の二男・前田玄長は実条の曾孫にあたる。
 
三条西実条は、[[安土桃山時代]]の[[慶長]]期から[[江戸時代]]初期の[[寛永]]期にかけて活躍した公卿で、三代将軍徳川家光の時に権大納言となり、慶長19年(1614([[1614]])に[[武家伝奏]]の重職に任じられた。その後、中宮大夫、[[内大臣]]を歴任し、寛永9年(1632([[1632]])までの18年にわたり[[武家伝奏]]も兼任し続けた、幕府とは密接な公卿である。また、[[春日局]]は三条西実条の猶妹となり、資格を得て御所に参内している。
 
実条の孫が押小路公音であり、玄長は曾孫にあたる。実条の正室は[[前田玄以]]の長女で、玄以の次女は[[堀尾忠氏]](初代[[松江藩]]主で出雲・隠岐両国で24万石の太守、松江開府の祖・[[堀尾吉晴]]の嫡男)の正室である。したがって、実条と堀尾忠氏は義理の兄弟であり、親族である。
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=== 明治維新後 ===
幕末の当主長禮(通称愿十郎)は、1876年([[明治]]9年([[1876年]])3月31日に、二男の長興(ながおき。長善の弟)を分家させ、前田家の本姓である堀尾姓を名乗らせ、平民籍への編入を東京府庁に願い出、受理されている。高家前田家は、そのまま本家として前田姓を、分家した二男には堀尾姓を名乗らせたことで、旧幕時代に名乗れなかった堀尾姓を名乗ることができた。
 
== 参考文献 ==