「フォルミニーの戦い」の版間の差分

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[[1444年]]の[[トゥール条約]]により、2年間の休戦が認められるとフランス軍の改革は一層進み、[[ジャン・ビューロー]]と[[ガスパール・ビューロー]]兄弟による砲兵の改良とそれによる砲兵隊の編成も進んでいた。リッシュモンも常備軍の整備を推し進め、[[1445年]]の勅令で略奪でフランスを荒廃させた傭兵隊の解散と、そこから優秀な兵隊を引き抜き6人の兵隊から成る槍隊を1500組に増やし、新たに9000人に上る勅令隊を15人の隊長で纏めて編成した。[[1448年]]の勅令で別の部隊を増加、[[教区]]ごとに50人の集団戦闘訓練を実施、そこから精兵を1人引き抜き約1万人で構成された国民弓兵隊の創設で常備軍の増強に努め、来るべきイングランドへの決戦に向けて準備を整えていった<ref>エチュヴェリー、P261 - P264、ホール、P180 - P181、佐藤、P155 - P157。</ref>。
 
一方でイングランドは幼い[[ヘンリー6世 (イングランド王)|ヘンリー6世]]の代となると、戦意は急速に萎み、主戦派と和平派で国が纏まらなくなっていた。それまでの主流派であったヘンリー6世の叔父の[[グロスター公]][[ハンフリー・オブ・ランカスター]]や[[ヨーク公]][[リチャード・プランタジネット (第3代ヨーク公)|リチャード]]は遠ざけられ、和平派である[[ヘンリー・ボーフォート (枢機卿)|ヘンリー・ボーフォート]][[枢機卿]]、[[サフォーク伯]][[ウィリアム・ド・ラ・ポール (初代サフォーク公)|ウィリアム・ド・ラ・ポール]]などが国政に参加するようになっていた。
 
トゥール条約ではシャルル7世の王妃の姪[[マーガレット・オブ・アンジュー]]との政略結婚が行われたが、代償として[[メーヌ]]と[[アンジュー]]をフランスに引き渡した。それに加え汚職や寵臣たちへの贔屓などにより財政危機や秩序崩壊を招き、フランスでの戦争の恒常的な敗北によって人気は急落していた。また、イングランド王室発祥の地であるノルマンディーにおいてもイングランドの占領政策は不人気であり、イングランド兵の恒常的な略奪や残虐行為に住民は強い反英感情を持っていた<ref>エチュヴェリー、P258 - P259、樋口、P169 - P170、佐藤、P153 - P154。</ref>。
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== 戦闘に至る経緯 ==
ギリスングランド王家及び上流貴族の発祥の地であるノルマンディー地方の喪失は受け入れられがたい状態であったため、イギリスングランドは翌1450年3月、ノルマンディー地方最大の港湾都市シェルブールに{{仮リンク|トーマス・キリエル|en|Sir Thomas Kyriell}}指揮下の増援5000人を派遣した。キリエルは目の上のたんこぶともいえる、シェルブールのすぐ南に位置するフランス軍の要衝{{仮リンク|ヴァローヌ|en|Valognes}}を包囲した。
 
この時、フランス軍を統率すべきリッシュモン大元帥はブルターニュにあり、フランソワ1世とその弟のジルの処遇を巡って一時的に不和となっていた。ジルはイングランド王ヘンリー6世の幼馴染であり親英派であったため、フランス側についた兄と叔父を非難し、反仏的な行動を行い1445年に逮捕されていた。処刑しようとするフランソワ1世とそれを止めようとするリッシュモン大元帥の不一致により、リッシュモンは手勢を除くブルターニュ兵を動員出来ず、フランソワ1世と和解してブルターニュ兵の動員を待つべきという周囲の声を聞かず出兵したが、ヴァローヌは[[4月10日]]に抜かれてしまった。
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== 戦闘の経過 ==
イングランド軍はヴァローヌを抜くと東下して軍勢を増やし7,000の軍勢でカーンへ向かった。それに対しマキと呼ばれる反英住民組織が妨害活動を行い、クレルモン伯もそれを支援しようとして援軍を送ったが、イングランド軍は撃退した。しかしクレルモンはイギリスングランド軍がカーンとサン=ローとの中間地点にあるフォルミニー村で停止していることを突き止め、派兵で減少して戦力差が開いているにも関わらず、リッシュモン大元帥の軍との合流を待たずに4月15日に戦端を開いた。イングランド軍は急襲を予期しており、[[4月14日|14日]]から急造ながらも野戦築城を施し、待ち受けていた。しかしながら、イングランド軍は近くにいる常勝リッシュモン大元帥の軍を警戒するために側面と後方に多くの兵を割かざるを得なかった。指揮官のキリエルは2つの橋を厳重に守り、騎兵突撃に備えた。
 
3倍の敵に対するクレルモンの攻撃は撃退された上に逆襲にあい、2門の大砲も奪われてしまった。また、イングランド軍のサマセット公の増援軍が近づいているという情報が両軍に入り、フランス軍は恐慌状態となり、イングランド軍の士気が上がった。しかしながら、戦場の南からイングランド軍の左翼に現れたのはクレルモンの攻撃意図を知らされたリッシュモン大元帥のフランス軍であった。
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イングランドの野戦軍が一掃されたノルマンディーではフランス側の攻勢が続き、5月にフランソワ1世とリッシュモン大元帥はアヴェランジュを、デュノワはバイユーを包囲陥落させた。[[7月1日]]に王直卒のフランス軍もカーンを陥落させ、籠城していたサマセット公ら残党はイングランドへ退去した。これらの攻囲戦闘でも砲兵隊が有意義に使用された。この間、フランソワ1世とリッシュモン大元帥の不仲の原因であったジルが獄死、フランソワ1世もアヴェランジュ陥落後はリッシュモン大元帥にブルターニュ兵の指揮を委ねた後の[[7月19日]]に急死するも、フランソワ1世の弟でジルの兄[[ピエール2世 (ブルターニュ公)|ピエール2世]]が後を継いでリッシュモン大元帥が後見に当たった。
 
そして、百年戦争中期の名将[[ベルトラン・デュ・ゲクラン]]も陥落できなかったシェルブールが囲まれ、[[8月12日]]に砲兵隊により陥落した。これによってノルマンディー方面からイギリスングランド軍勢力が一掃され、百年戦争におけるフランス勝利の帰趨が明確となった。
 
ノルマンディー平定後、フランスは[[ボルドー]]を中心とする長くイングランド王の固有領土であった[[アキテーヌ公]]領を攻略するが、シャルル7世はブルターニュ人でもあるリッシュモン大元帥にこれ以上の功績を挙げさせないため、彼をノルマンディーの後処理に当たらせた。一方、フォルミニーの戦いで大陸における領土をほぼ全て失ったイングランド軍は領土回復を図り翌[[1452年]]に[[シュルーズベリー伯爵|シュルーズベリー伯]][[ジョン・タルボット (初代シュルーズベリー伯)|ジョン・タルボット]]率いる遠征軍をボルドーへ派遣し奪還、フランス軍も報復のため[[1453年]]にアキテーヌへ急行、カスティヨンの戦いへと繋がった<ref>エチュヴェリー、P284 - P292、ホール、P182 - P184、樋口、P172 - P175、佐藤、P158 - P159。</ref>。