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宗睦は尾張藩の「中興の祖」と言われている。確かに藩政においては前半と中盤では大いに成功を収め、藩政を発展、安定化に導いた。しかし晩年の財政政策の失敗は、その後の尾張藩における財政破綻の一因を成したのであった。
 
== 後継者問題 ==
宗睦の実子としては、好君との間に儲けた長男・[[徳川治休|治休]]、次男・[[徳川治興|治興]]などがいたがいずれも早世、さらに支藩の[[美濃国|美濃]][[高須藩]]から養嗣子に迎えた甥・[[徳川治行|治行]]とその子・五郎太も早世し、続いて迎えた養子の甥・勇丸も早世したため、将軍[[徳川家斉]]の四男敬之助を養嗣子としたがまたも早世し、[[寛政]]10年([[1798年]])4月に[[一橋徳川家|一橋]][[徳川治国|治国]]の長男[[徳川斉朝|斉朝]]を養嗣子として迎え、宗睦死後の寛政12年1月に跡を継がせた。このため、[[徳川義直]]以来の男系の血筋は断絶した<ref>小山譽城『徳川御三家付家老の研究』(清文堂出版、2006年) ISBN 4-7924-0617-X</ref><ref>『徳川諸家系譜  第二巻』「尾張家御系譜」</ref>。ただし、[[徳川斉朝|斉朝]]の実母は[[二条治孝]]の娘・乗蓮院であり、治孝の父・[[二条宗基]]の実母は[[尾張藩]]四4代藩主[[徳川吉通]]の長女[[信受院]](三千君)である。つまり[[徳川斉朝|斉朝]]は[[徳川吉通|吉通]]の来孫(曾孫の孫)であり、尾張徳川家の血を女系で引いている。なお、斉朝の正室・[[清湛院|淑姫]](徳川家斉の長女)は、初め治行の子・五郎太と婚約していた。
 
=== 嗣子・養嗣子 ===
# 治休(1753年 - 1773年) - 宝暦3年(1753年)10月7日誕生、安永2年(1773年)6月14日没、長男
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*養子:[[徳川斉朝|斉朝]]([[徳川治国]]の長男)
 
== 関係のある史跡 ==
*[[愛知県]][[小牧市]]の[[小牧山]]に、宗睦をたたえた[[石碑]]がある。
 
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*[[1799年]]([[寛政]]11)12月20日、薨去。法名:天祥院殿鋻譽峻徳源明大居士。墓所:名古屋市東区筒井の徳興山建中寺。
 
== 徳川宗睦を扱った作品 ==
== TV番組 ==
[[1994年]](平成6年)4月から10月にかけて、[[テレビ朝日]]系列で『[[殿さま風来坊隠れ旅]]』という番組が放送された。これは[[紀伊藩]]主[[徳川治貞]]([[三田村邦彦]])と尾張藩主'''徳川宗睦'''([[西岡徳馬]])が主役の勧善懲悪[[時代劇]]で、もちろんフィクションである。しかし、それまで[[愛知県]]内でも無名に等しかった徳川宗睦の名が知れ渡った唯一の事例である。
 
 
== 偏諱を与えた人物 ==
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{{尾張徳川家}}
{{尾張藩主|9代|1761年 - 1799年}}
 
{{DEFAULTSORT:とくかわ むねよし}}
[[Category:尾張藩主|むねよし]]
[[Category:尾張徳川氏|むねよし]]
[[Category:徳川宗勝の子女]]
[[Category:1733年生]]
[[Category:1800年没]]