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'''関東管領'''(かんとうかんれい)は、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]から[[室町時代]]に、[[室町幕府]]が設置した[[鎌倉府]]の長官である[[鎌倉公方]]を補佐するために設置した役職名である。当初は'''関東執事'''(かんとうしつじ)といっ呼ばれていた。鎌倉公方の下部組織でありながら、任命権等は[[征夷大将軍|将軍]]にあった。
 
== 概要 ==
[[File:Statue of Uesugi Kenshin at Kasugayama Castle.jpg|thumb|上杉謙信公の銅像(新潟県上越市・春日山城跡)]]
鎌倉府は[[観応の擾乱]]の直前の[[正平 (日本)|正平]]4年/[[貞和]]5年([[1349年]])室町幕府初代将軍[[足利尊氏]]が嫡男の[[足利義詮|義詮]]を鎌倉から[[京都]]へ呼び戻し、代わりに次男の亀若丸([[足利基氏|基氏]])を関東統治のために派遣したのがはじまりで、幼い基氏を補佐するために執事と呼ばれる補佐を置いた。京都にも将軍を補佐する執事(後の[[管領]])が存在したため、これと区別するために「関東執事」と呼ばれた。当初は2人指導体制で、[[上杉憲顕]]、[[斯波家長]]、次いで[[高師冬]]、[[畠山国清]]らが任じられ。関東執事は初期においては[[斯波氏]]、[[畠山氏]]が就任していたが次第に[[上杉氏]]に独占されていき、最終的には上杉氏が世襲していくことになる。また、上杉氏は[[上野国|上野]]、[[伊豆国|伊豆]]の守護も担っていた。
 
直義方であった憲顕は失脚して[[越後国|越後]]で引退するが、[[正平 (日本)|正平]]17年/[[貞治]]元年([[1362年]])に基氏が願って復職した後、もしくは[[正平 (日本)|正平]]22年/[[貞治]]6年([[1367年]])に足利基氏が急死して、幼少の[[足利氏満]]が鎌倉公方を継いで憲顕が後見についた後、関東管領と呼ばれるようになる<ref>関東管領の呼称は憲顕の復帰後から見られるものの、後世に知られる関東管領の役職が成立したのは従来鎌倉公方が行っていた所務遵行命令権が基氏の死をきっかけに憲顕に移されて以後関東管領の職権とされた時とする見方がある。また、応安元年4月10日に[[春屋妙葩]]が[[二階堂行春]]に充てた書状(『南北朝遺文 関東編』3465号)では、上杉憲顕を「管領」、細川頼之を「執事」と呼称していることから、関東管領が室町幕府中央の管領よりも先に成立していた可能性が高い。(亀田俊和『室町幕府管領施行システムの研究』思文閣出版、2013年 ISBN 978-4-7842-1675-8 P291-298)</ref>。
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== 職掌 ==
関東管領の任免権は京都の室町幕府(将軍)が有していたが、実際には鎌倉公方が人事権を行使して幕府はそれを承認する形を取っていた。勿論、幕府も権限を放棄した訳ではなく、[[康暦の政変]]直後に独断で上杉憲方を任じたり、永享の乱後に上杉憲実の辞職を認めなかったりしており、特に上杉憲忠が関東管領に任命された時には特殊な事情(憲忠の山内上杉家家督・関東管領職継承に反対する父の憲実と憲忠を擁立した[[長尾景仲]]ら重臣達の対立及び鎌倉公方足利成氏が[[信濃国]]にいて鎌倉に不在)のために、室町幕府の任命及び[[後花園天皇]]の[[綸旨]]による関東管領任命が行われた。その後、成氏の憲忠殺害をきっかけに始まった享徳の乱によって、鎌倉公方(古河公方)と関東管領は敵対して完全に分裂すると、名実ともに室町幕府が任命するようになったものの、上杉顕定の没後には山内上杉家当主の家督が継承する[[家職]]となり、室町幕府・古河公方の任命手続を経ることがなくなった<ref name="kuroda">黒田基樹「関東管領上杉氏の研究」(黒田編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第一一巻 関東管領上杉氏』(戒光祥出版、2013年)ISBN 978-4-86403-084-7)</ref>。また、上杉憲春以降、京都で成長した上杉房顕を例外として任官の口宣案は残されておらず、朝廷からの任官ではなく、鎌倉公方が与えた官途名を用いていたとみられている<ref>木下聡「山内上杉氏における官途と関東管領職の問題」 初出:『日本歴史』第685号、2005年/所収:黒田基樹 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第一二巻 山内上杉氏』(戒光祥出版、2014年)ISBN 978-4-86403-108-0</ref>。
 
関東管領の職務については、鎌倉公方を補佐して管内における政務の統轄を行ったとみられるが、その具体的な内容については、