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僧兵 (会話 | 投稿記録)
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== 経歴 ==
永禄3年2月28日(1560年3月24日)、[[上総国]]二宮領南谷木一松(現在の[[千葉県]][[茂原市]])で生まれる。[[長久寺 (東金市)|長久寺]]の[[檀林]]で法を学んだという。強引熱心な[[折伏]]布教で他宗を[[改宗]]して名を轟かしていた。
 
[[慶長]]2年([[1597年]])、[[方墳寺]]を建立した。慶長4年([[1599年]])、[[妙満寺]]27世を継いだ。[[大坂城]]で行われた対論([[大阪対論]])によって[[対馬府中藩|対馬]]に流された[[妙覚寺 (京都市)|妙覚寺]]・[[日奥]]の赦免運動に努めた。
 
慶長12年([[1608年]])、[[尾張国]]熱田で行った[[浄土宗]]の[[正覚寺 (名古屋市)|正覚寺]]・[[沢道]]との[[宗論]]は、[[増上寺]]を経て[[徳川家康]]に上訴され、同13年([[1608年]])に増上寺・[[廓山]]らと[[江戸城]]で宗論([[慶長宗論]])が行われることとなった。その結果、[[不受不施義]]を説いてきた<ref>[http://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E7%B5%8C 世界百科事典内の日経の言及 「妙満寺」より]</ref>日経は宗論することができない状況にさた為、<ref>当代記の記述ではこの問答時に日経は発病と称して、問答には答えなかったと記している。</ref><ref>慶長年録では前日に何者かに棒で殴打され、知覚を失った状態であるのに乗じて対問がなされたとある。</ref>、慶長14年([[1609年]])耳と鼻を削がれ酷刑となった。(慶長法難)
 
慶長18年([[1613年]])、[[加賀国]][[金沢市|金沢]]へ赴き、[[元和 (日本)|元和]]元年([[1615年]])に[[越中国]][[婦負郡]]外輪野村(現在の[[富山市]]婦中町外輪野)に庵室を設けて布教を続け、同地で没した。[[大正]]年間に同所で墓所が整備された。