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[[永享]]10年([[1438年]])に第4代鎌倉公方[[足利持氏]]が6代将軍[[足利義教]]と対立すると、関東管領[[上杉憲実]]は持氏を諌めるが、自身が[[暗殺]]される風説が流れると、管領職を辞して上野に逃れ、憲実追討のために持氏が兵を起すと武蔵府中に陣を構え、幕府と連合して持氏を自害させ鎌倉府を滅亡させるまでに至る([[永享の乱]])。永享12年([[1440年]])に[[下総国|下総]]の[[結城氏]]などが持氏の遺児を奉じて[[結城合戦]]と呼ばれる反乱を起こすと、鎮定に協力するために復職する。その後憲実は遁世、[[文安]]4年([[1447年]])の鎌倉府再興まで東国支配を上杉氏が受け持つことになる。
 
再興後も鎌倉府と関東管領の対立は続き、持氏の遺児[[足利成氏|成氏]]が鎌倉公方となると、[[享徳]]3年([[1454年]])に成氏は関東管領[[上杉憲忠]]を暗殺する。上杉氏と戦っている最中に幕府から派遣された[[駿河国|駿河]]守護[[今川範忠]]に鎌倉府を追われると、成氏は[[古河市|古河]]を座所とする([[享徳の乱]])。[[古河公方]]と名乗った成氏と関東管領[[上杉顕定]]の間で和解が成立するのは28年後のことであった。
 
なお、この乱の最中に[[足利政知]]が新たに[[堀越公方]]として関東に下るが、この際に政知の補佐役として[[上杉教朝]]・[[渋川義鏡]]が任命され、関東管領と区別するためにその旧称である「関東執事」が一時的に復活している。
 
だが、この間に庶流の[[扇谷上杉家]]が山内上杉家に迫る勢力を得たことから、[[長享]]元年([[1487年]])に顕定が扇谷上杉家討伐を開始する([[長享の乱]])。18年続いたこの戦いは顕定の勝利に終わったが、通算して50年にわたった戦乱で関東はすっかり荒廃した上に、扇谷上杉家が堀越公方を攻め滅ぼした伊勢宗瑞([[北条早雲]])を関東に招き入れたことによって[[後北条氏]]の台頭のきっかけを作ってしまう。
 
[[16世紀]]に入って後北条氏は関東中心部へと勢力を拡大していくが、山内上杉家は2度にわたる家督争いによって自ら勢力を後退させていき、[[天文 (日本)|天文]]15年([[1546年]])の[[河越夜戦]]において古河公方[[足利晴氏]]、関東管領[[上杉憲政]]、扇谷上杉家当主[[上杉朝定 (扇谷上杉家)|上杉朝定]]の連合軍が[[北条氏康]]に敗北すると、古河公方、山内上杉家は大打撃を受け、扇谷上杉家は朝定が討死して滅亡してしまう。
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== 職掌 ==
関東管領の任免権は京都の室町幕府(将軍)が有していたが、実際には鎌倉公方が人事権を行使して幕府はそれを承認する形を取っていた。勿論むろん、幕府も権限を放棄したわけではなく、[[康暦の政変]]直後に独断で上杉憲方を任じたり、永享の乱後に上杉憲実の辞職を認めなかったりしており、特に上杉憲忠が関東管領に任命された時には特殊な事情(憲忠の山内上杉家家督・関東管領職継承に反対する父の憲実と憲忠を擁立した[[長尾景仲]]ら重臣達の対立及び鎌倉公方足利成氏が[[信濃国]]にいて鎌倉に不在)のために、室町幕府の任命及び[[後花園天皇]]の[[綸旨]]による関東管領任命が行われた。その後、成氏の憲忠殺害をきっかけに始まった享徳の乱によって、鎌倉公方(古河公方)と関東管領は敵対して完全に分裂すると、名実ともに室町幕府が任命するようになったものの、上杉顕定の没後には山内上杉家当主の家督が継承する[[家職]]となり、室町幕府・古河公方の任命手続を経ることがなくなった<ref name=kuroda>黒田基樹「関東管領上杉氏の研究」(黒田編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第一一巻 関東管領上杉氏』(光祥出版、2013年)ISBN 978-4-86403-084-7)</ref>。また、上杉憲春以降、京都で成長した上杉房顕を例外として任官の口宣案は残されておらず、朝廷からの任官ではなく、鎌倉公方が与えた官途名を用いていたとみられている<ref>木下聡「山内上杉氏における官途と関東管領職の問題」 初出:『日本歴史』第685号、2005年/所収:黒田基樹 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第一二巻 山内上杉氏』(光祥出版、2014年)ISBN 978-4-86403-108-0</ref>。
 
関東管領の職務については、鎌倉公方を補佐して管内における政務の統轄を行ったとみられるが、その具体的な内容については、
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などが挙げられる(ただし、研究者によって多少の違いはある)。また、永和年間以降は鎌倉府の料国とみなされた武蔵国の守護職も兼ねた。だが、鎌倉公方と関東管領の関係が悪化していくにつれて、鎌倉府における関東管領の職務は麻痺するようになっていった<ref name=kuroda/>。
 
室町将軍と鎌倉公方という対立した2者が任免権を共有していた時期の関東管領の立場は非常に複雑で、上杉憲春のように両者の板挟みにあって自らの命を絶つ関東管領<ref>小国浩寿『鎌倉府体制と東国』吉川弘文館、2001年、P160-164</ref>もいた。更に上杉禅秀の乱後に越後国にも広大な所領を持つ山内上杉家による関東管領世襲が確立すると、事態はさらに複雑化する。越後の所領を[[安堵]]するのは室町幕府であり、室町将軍はその権限を利用して関東管領(山内上杉家)に従属を迫り、反対に鎌倉公方は鎌倉府の管外であっても関東管領の所領は鎌倉府が安堵するとして越後の情勢への関与を図ったからである。結果的に越後の山内上杉家領の扱いをはじめとする鎌倉府の管外への関与政策は永享の乱の一因となった<ref>植田真平「山内上杉氏と越後上杉氏」(黒田基樹 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第一一巻 関東管領上杉氏』(光祥出版、2013年)ISBN 978-4-86403-084-7)</ref>。なお、15世紀後期以降、「関東管領」は実質上の官職と同様の社会的地位とみなされるようになり<ref>上杉清方の没後、当時の将軍・足利義政が幼少であったために後花園天皇から上杉憲実に関東管領に復帰するように命じる綸旨が出され、憲実が辞退するとその子・憲忠に対して改めて関東管領に任じる綸旨が出された(『建内記』文安4年3月24日・7月10日両条)。</ref>、上杉顕定・憲房・憲政については、生涯任官及び[[官途名]]を用いた事実はなかったと考えられている(系図上の官職・受領名は江戸時代の創作とみられる。また、上杉房顕・政虎(謙信)なども関東管領就任後は任官を受けず、関東管領就任前の官途名を用い続けている)<ref>木下聡「山内上杉氏における官途と関東管領職の問題」 初出:『日本歴史』第685号、2005年/所収:黒田基樹 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第一二巻 山内上杉氏』(光祥出版、2014年)ISBN 978-4-86403-108-0、及び同「上杉氏の官途について」(黒田基樹 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第一一巻 関東管領上杉氏』(光祥出版、2013年)ISBN 978-4-86403-084-7)</ref>。
 
== 分裂する関東管領 ==