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|装甲 = 舷側:38mm+25mm
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'''夕張'''(ゆうばり/ゆふばり)は、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[軽巡洋艦]]。武器を全て中心線上に配置し、2890トンの船体に5500トン型の軽巡洋艦と同等の砲備雷装を備え、航洋性能は5500トン型を超えた。当時、世界の海軍から注目され、設計者の[[平賀譲]]大佐(当時のち将官)の名を一躍有名にした<ref>雑誌丸編集部「写真集 日本の軽巡洋艦」光人社 P58 夕張 </ref>。同型艦はない。その艦名は2等巡洋艦の命名慣例である川の名に従い、[[北海道]]を流れる[[石狩川]]の支流である[[夕張川]]からちなんで名づけられた。
 
== 概要 ==
[[File:Yubari ONI.jpg|thumb|left|200px|夕張の武装・装甲配置を示した図。]]
夕張は、[[1923年]](大正12年)7月竣工した。設計は[[平賀譲]]ら。当時の不況の中での海軍予算の逼迫により、[[球磨型軽巡洋艦|球磨型]]をはじめとする[[5500トン型軽巡洋艦]]と同等の戦闘力をできるだけ小型の艦に詰め込むことを目標とし、3,100[[トン]] の小さい船体ながら砲力、雷力等の攻撃力は同等であった。
 
これら今までになかった新機軸は、軽巡洋艦のイメージを一新させ、[[ジェーン海軍年鑑]]に特記項目付きで掲載されるなど各国関係者を驚かせた。[[平賀譲]]の才能が遺憾なく発揮された海軍史上特筆される艦とされる。しかし、夕張は小型艦であるため航続力は劣り([[峯風型駆逐艦]]が14ノットで3,600[[海里]]に対して本艦夕張は14ノットで3,300海里だった)また小型の船体に重武装・高速性を追求したため船体の余裕に欠け、5500トン型軽巡洋艦が改装で航空機を搭載できたのに対し本艦夕張では不可能であり、大きな欠点となった。大戦後半では防空力強化のため主砲2門を撤去せざるを得なかった。このように本艦、夕張の設計には問題もあったが[[古鷹型重巡洋艦]]以降のコンパクトな艦体に重武装を施した重巡洋艦の設計の礎となった、言わば実験艦としての意義は大きかった。
 
== 艦型 ==
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夕張は[[1922年]](大正11年)[[6月5日]]、[[佐世保工廠]]にて起工し<ref name="艦船要目">[[#艦船要目公表範囲(昭和12年12月1日)]]p.3『夕張|二等巡洋艦|(艦要目略)|佐世保工廠|大正11-6-5|12-3-5|12-7-31|(艦装備略)』</ref>、1923年(大正12年)3月5日に進水した<ref name="艦船要目"/>。同年7月31日竣工<ref name="艦船要目"/>。竣工より1年間は[[第一艦隊 (日本海軍)|第一艦隊]]・第三戦隊所属であった。竣工からまもない大正12年9月1日、[[関東大震災]]が発生する。夕張は品川方面において戦艦霧島、比叡、軽巡洋艦北上、名取、木曾、由良等と救援活動を行った。[[1925年]](大正14年)12月1日に第三水雷戦隊[[旗艦]]となり、以降ほとんどの期間で水雷戦隊旗艦を務めている。
 
しかし1934年(昭和9年)10月12日、夕張は夜間演習中に機関故障を想定し二軸運転(中軸停止)で航行していたところ、軽巡[[由良 (軽巡洋艦)|由良]]と衝突事故を起こし艦首に損傷を受けた。
 
[[日中戦争]]時には、夕張は第五水雷戦隊旗艦として中国沿岸の封鎖任務にあたった<ref>[[#横山回顧録]]54頁</ref>。[[1937年]](昭和12年)9月13日、夕張は香港西方大産島泊地に到着、第二十九駆逐隊と合流する<ref name="横山回顧56">[[#横山一郎回顧録]]56頁</ref>。翌日、夕張は[[珠江]]を遡行、[[虎門要塞]]から出撃してきた[[中華民国|中華民国海軍]][[肇和級防護巡洋艦]]「[[肇和 (防護巡洋艦)|肇和(Chao Ho)]]」と交戦し、砲撃戦により「肇和」を座礁に追い込んだ<ref name="横山回顧56"/>。泊地に戻る途中、中華民国空軍[[A-17 (航空機)|ノースロップA-17軽爆撃機]]とカーチス・ホークⅢ戦闘機の空襲により至近弾を受け、5名の戦傷者を出した<ref>[[#横山回顧録]]57頁</ref>。
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=== 沈没 ===
1944年(昭和19年)3月2日内南洋諸島への緊急輸送([[松輸送]])が発令された。3月22日、夕張も東松船団旗艦としてサイパンにむけ護衛艦6隻、輸送船6隻とともに向かい30日にサイパンに到着。4月20日パラオよりソンソル島への陸軍兵員350名と軍需品50トンを搭載し、4月23日[[夕月 (駆逐艦)|夕月]]とともにサイパンを出港して27日早朝にパラオに到着する。
 
[[4月26日]]18時15分パラオを出港し27日ソンソル島に到着する。揚陸作業を開始し9時42分作業を終了して再び夕月とともにパラオに向けて出港した。ところが、19ノットで之の字運動にて航行中に10時1分ソンソル島南端の95度35海里のところで12キロ先よりアメリカ軍の[[ガトー級潜水艦]]の一隻でもある[[ブルーギル (潜水艦)|ブルーギル]](''USS Bluegill, SS-242'') から発見されブルーギルの魚雷攻撃を受けた。ブルーギルの発射した6本の魚雷のうち1本が夕張の右舷第1窯室に命中し1,2窯室および付近に浸水区画満水となり夕張は航行不能に陥った。ただちに排水作業にはいるとともに[[五月雨 (駆逐艦)|五月雨]]に曳航を命じるが、夕張の排水量が大きくうまく曳航できずにいた。翌28日浸水区画が広がり沈没しだしたため、生存者全員を夕月に移乗させさらに曳航作業を続けたが午前10時15分、夕張は北緯5度38分東経131度45分の地点で艦首より沈没した。夕張の戦死者は19名であった。
 
== 年表 ==
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*[[1942年]][[6月19日]] - 横須賀を出港、[[チューク諸島|トラック]]に配備し[[第一次ソロモン海戦]]等に参加。
*[[1943年]][[11月24日]] - 輸送任務中に[[アメリカ合衆国軍|アメリカ軍]]機の攻撃を受け損傷、翌年修理並びに武装強化の改修が行われた。
*[[1944年]][[4月27日]] - [[パラオ]]諸島南西で米潜水艦ブルーギルの雷撃により沈没。
** [[6月10日]] - 除籍