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[[File:Petr Rikord.jpeg|thumb|150px|right|老年のリコルド]]
====嘉兵衛拿捕までの経緯====
{{仮リンク|ニコライ・アレクサンドロヴィッチ・フヴォストフ|ru|Хвостов, Николай Александрович|label=ニコライ・フヴォストフ}}による[[文化露寇]]の後、日本の対ロシア感情は極めて悪化していた。そうした中、文化8年([[1811年]])5月、軍艦[[ディアナ号]]で千島列島の測量を行っていた[[ヴァーシリー・ゴローニン]]<ref>ラテン文字表記ではGolovnin。 和文表記では他にゴロヴニン、ゴロヴニーンなどと記される場合がある。 </ref>は国後島の[[泊村 (北海道根室振興局)|泊]]に入港した際、厳戒態勢にあった国後陣屋の役人に騙されて捕えられ、松前で幽囚の身となった。ディアナ号副艦長の{{仮リンク|ピョートル・リコルド|ru|Рикорд, Пётр Иванович}}は一旦[[オホーツク]]に戻り、ゴローニン救出の交渉材料とするため、文化露寇で捕虜となり[[シベリア]]に送られていた[[中川五郎治|良左衛門]]<ref>良左衛門は択捉場所の番人小頭・中川五郎治の偽名。五郎治はロシアにいる間、松前の商人「中川良左衛門」であると偽っていた。[[#リコルド|リコルド]], p. 235</ref>や文化7年([[1810年]])に[[カムチャツカ半島]]に漂着した[[摂津国]]の歓喜丸の漂流民を伴ない、国後島に向かった。
 
国後島に着いたリコルドは、漂流民を釈放し、日本側からゴローニンの消息を知ろうとした。リコルドは、良左衛門を介してゴローニンは死んだと伝えられたが信じず、国後島沖に留まり、日本船を拿捕して更なる情報を入手しようと待ち受けた。そこに通りかかったのが嘉兵衛の船である。