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来歴・人物: 同級生ではないので訂正
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岐阜短期大学付属高等学校(現在の[[岐阜第一高等学校]])の[[エース]]として、{{by|1970年}}甲子園大会に春夏連続出場。[[第42回選抜高等学校野球大会|春]]はベスト8、[[第52回全国高等学校野球選手権大会|夏]]はベスト4まで勝ち上がる。甲子園では通算7試合に[[登板]]して、5勝2敗 61[[三振#奪三振|奪三振]] [[防御率]]1.35を記録した。また、高校時代に[[ノーヒットノーラン]]を3回達成(うち[[完全試合]]1回)。当時、同学年で活躍した和歌山・[[和歌山県立箕島高等学校|箕島高校]]の[[島本講平]]投手(のち[[福岡ソフトバンクホークス|南海]])、広島・[[広陵高等学校 (広島県)|広陵高校]](のち[[広島東洋カープ|広島]])の[[佐伯和司]]投手と合わせて「高校生三羽ガラス」と呼ばれた。高校通算28勝4敗。
 
[[速球|ストレート]]の威力は同級生い年の佐伯和司に匹敵し、角度のある[[カーブ (球種)|カーブ]]も投げていた。荒れ球が持ち味でもあり、制球難を危惧する声もあったが、[[1970年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|同年秋のドラフト]]で読売ジャイアンツに1位で指名され、翌{{by|1971年}}に入団。
 
1971年は一軍公式戦での登板はなく、[[イースタン・リーグ]]で17試合に登板して、5勝6敗 防御率3.65を記録。ストレートの威力はすばらしかったが制球難は克服できず、[[投球回数]]78回2/3で87奪三振・76[[四死球]]であった。翌{{by|1972年}}も公式戦での登板はなく、イースタンリーグでも2勝3敗 防御率6.98と奮わなかった。しかし、10月2日の[[ロッテオリオンズ|ロッテ]]戦では3回からの6イニングを無安打2四球に抑え、秋の[[教育リーグ]]でも好投するなど、シーズン終盤にかけて投球内容が改善していた。