「ウスマーン・イブン・アッファーン」の版間の差分

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ウスマーンは死に瀕したウマルから後継者候補の一人に指名され、同じく後継者候補に指名された[[アリー・イブン・アビー・ターリブ|アリー]]、[[タルハ]]、[[ズバイル・イブン・アウワーム|ズバイル]]、[[アブドゥッラフマーン・イブン・アウフ]]、[[サアド・イブン・アビー・ワッカース]]らクライシュ族出身の[[ムハージルーン]](マッカ時代からのムハンマドの信徒でマディーナに移住した人間)の長老と会議(シューラー)を開いた。カリフの候補者はウスマーンとアリーに絞られ、アウフが議長を務めた<ref name="kosugi180">小杉『イスラーム文明と国家の形成』、180頁</ref><ref>森、柏原『正統四カリフ伝』下巻、56-57頁</ref>。ウマルが没してから3日間、アウフは指導者層以外のマディーナの人間にもいずれがカリフに適しているかを諮り、最終的にウスマーンをカリフの適格者に選んだ<ref>森、柏原『正統四カリフ伝』下巻、57-58頁</ref>。644年11月7日、ウスマーンはマディーナのモスクでバイアを受け、カリフに即位する<ref>森、柏原『正統四カリフ伝』下巻、58-60頁</ref>。ウスマーンはカリフという職務に強い重圧を感じ、最初の演説を行うために説教台に登った彼の顔色は悪く、演説はたどたどしいものとなったと伝えられている<ref>森、柏原『正統四カリフ伝』下巻、61頁</ref>。クライシュ族の長老たちにはウスマーンの支持者が多く、アリーの主な支持者であるアンサール(ヒジュラより前にマディーナに住んでいたイスラム教徒)には発言権が無かったことが、ウスマーンのカリフ選出の背景にあったと考えられている<ref name="kosugi180"/>。さらに別の説として、ウマル時代の厳格な統治からの脱却を望んだ多くの人々が、禁欲的な生活を求めるアリーではなく、ウスマーンを支持したためだとも言われている<ref name="seito64">森、柏原『正統四カリフ伝』下巻、64頁</ref>。史料の中には、他の長老からの「先任の二人のカリフの慣行に従うか」という質問に、ウスマーンは「従う」と断言し、アリーは「努力する」と答えたことが選出の決め手になったと記したものもある<ref name="kosugi180"/>。
 
645年頃、ウマルの死が伝わるとイスラーム勢力への反撃が各地で始まり、アゼルバイジャンとアルメニアでは部族勢力の反乱が起こり、エジプト・シリアの地中海沿岸部はビザンツ帝国([[東ローマ帝国]])の攻撃を受ける。ウスマーンはそれらの土地の騒乱を鎮圧し、中断されていたペルシア遠征を再開した。[[ニハーヴァンドの戦い]]の後に進軍を中止していた軍は、ウスマーンの命令を受けて進軍を再開した。[[650年]]に[[ジーロフト]]に到達した軍は、三手にわかれて[[マクラーン]]、[[スィースターン]](シジスターン)、[[ホラーサーン]]を征服し、[[ペルシア]]の征服を完了する<ref name="horupu"/>。翌[[651年]]に[[メルヴ遺跡|メルヴ]]に逃亡したペルシアの王[[ヤズデギルド3世]]は現地の総督に殺害され、[[サーサーン朝]]は滅亡した<ref>余部『イスラーム全史』、54頁</ref>。[[歴史的シリア|シリア]]からは[[メソポタミア]]北部への遠征軍が出発し、[[646年]]に[[アルメニア]]、[[650年]]に[[アゼルバイジャン]]を征服する。こうして、ムハンマドの時代から始まったアラブ人の征服活動は、650年に終息する<ref name="horupu"/>。ウスマーンはカリフとして初めて[[中国]]に使者を派遣した人物と考えられており、651年に[[唐]]の首都である[[長安]]にイスラーム国家からの使者が訪れた<ref>前嶋信次『イスラム世界』、102-103頁</ref>。
 
治世の後半、エジプトやイラクではウスマーンの政策への不満が高まった<ref name="ii-jiten"/>。シリアにはウマルの時代に総督に任命された[[ムアーウィヤ]]を引き続き駐屯させ、エジプトにはウスマーンの乳兄弟であるイブン・アビー・サルフが総督として配属された。ウスマーンが実施したウマイヤ家出身者の登用政策は一門による権力の独占として受け取られ、イスラム教徒の上層部と下級の兵士の両方に不満を与えた<ref name="horupu"/>。[[バスラ]]や[[クーファ]]に駐屯する兵士は俸給の削減によって苦しい生活を送り、地方公庫からの現金の支給を要求したが、総督は彼らの要求を容れなかった<ref>佐藤『イスラーム世界の興隆』、83-84頁</ref>。ウスマーンの治世の末期には、反乱とウスマーンの暗殺が計画されている噂が流れていた<ref>森、柏原『正統四カリフ伝』下巻、119頁</ref>。