「安土宗論」の版間の差分
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== 宗論後 ==
宗論が終った直後、頂妙寺の日珖は「妙」の一字に答えられず、群集に打擲され、法華八巻は破り捨てられた。
法華宗の僧や宗徒達は逃げ散ったが、これを津田信澄らが捕え、宗論の記録を信長の下へ届けた。 信長は時を移さず、安土から浄厳院へ出向き、法華宗・浄土宗の当事者を召し出して、霊誉と聖誉に扇と団扇を贈り、大いに褒め称えた。審判者の景秀鉄叟には杖を進呈した。 そして大脇伝介を召しだして「一国一
この度は霊誉長老の宿を引き受けたにも係わらず、長老の応援もせず、人に唆されて問答を挑み、京都・安土内外に騒動を起こした。不届きである」と、厳重に申し渡して真っ先に斬首した。 また、普伝を召しだして普伝の業績を問い質(ただ)した。普伝は一切経の何処にどんな文句があるか諳んじる程博識である。しかし、何宗にも属していない。彼の行状は、ある時は小梅の小袖、ある時は摺箔の衣装など結構な物を着て、ぼろぼろになると、仏縁を結ぶと称して、これを人々に与えていたそうである。得意顔をしていたが、よくよく調べてみると小袖は値打ちのない紛い物であった。博識の普伝が納得して法華宗に入ったとなれば、法華宗は益々繁栄するからと懇願され、金品を受け取ってこの度法華宗に属したのである。よい歳をして嘘を吐いていた訳である。「今度の宗論に勝ったら、一生不自由しない様にしてやろうと法華宗から堅い約束をされ、金品を受け取って、役所にも届を出さずに安土に来た事は、日頃の言い分に反し、不届きである」と述べた。
更に信長は追及して「宗論の場では己は発言せず、他人に問答をさせて、勝ち目になったらしゃしゃり出様と待ち構えていた。卑劣な企みで、真にけしからぬ」と、普伝の首も斬った。
残った法華宗の歴々の僧達へは、次の様に言い渡した。「大体、兵達は軍役を日々勤めて苦労しているのに、僧職の者達は寺庵を結構に造り、贅沢な暮らしをしている。それにも関わらず、学問もせず『妙』の一字にも答えられなかったのは誠に許し難い。ただし法華宗は口が達者である。後日、宗論に負けたとは多分言うまい」、そして「宗門を変更して浄土宗の弟子になるか、さもなくば、この度宗論に負けた以上は今後は他宗を誹謗しない、との誓約書を出すがよい」と申し渡した。詫び証文の概要は以下の通り。 敬白 起請文(きしょうもん)の事
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上様、浄土宗様
この様な証文を出した<ref>なお、この証文は後に[[豊臣秀吉]]が法華宗側に返却した。以て法華宗は再び[[折伏]]活動をする様になったと伝えられる。</ref> 上に「宗論に負けました」と書いてしまったからには、法華宗が負けた事を女子供迄もが後の代まで聞き知る事になった。別の文句が幾らでもあったのに失敗した、と歴々の僧たちが後悔していると伝え聞いて、またまた世人はこれを笑い者にした。
建部紹智は[[堺]]の港まで逃げたが捕縛された。この度の騒動は大脇伝介と建部紹智が発端となったのだから、紹智も首を斬られた。
以上、信長公記の記述による。
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