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{{Infobox Musician <!--Wikipedia:ウィキプロジェクト 音楽家を参照-->
| Name = イザーク・ストロース<br/>(イザーク・シュトラウス<br/>Isaac Strauss
| Img = Isaac Strauss, - DiárioIsaac, IllustradoBNF (1Set1888)Gallica.pngjpg
| Img_capt = イザーク・シュラウロー
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}}
{{portal クラシック音楽}}
'''イザーク・シュラウロース'''('''Isaac Strauss''', [[1806年]][[6月2日]] - [[1888年]][[8月9日]])は、[[フランス]]の[[作曲家]]・[[指揮者]]。出身地[[ストラスブール]]はフランスと[[ドイツ]]とフランスが領有権を巡って争った地であるため、姓の読みはドイツフランス語風の'''シュラウロース'''、フランスドイツ語風の'''[[シュローラウ]]'''の二通りがある。文化人類学者[[クロード・レヴィ=ストロース]]の曽祖父である<ref>[http://www.ambafrance-jp.org/%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%B4%E3%82%A3 在日フランス大使館公式サイトの記事「クロード・レヴィ=ストロースが100歳の誕生日」]より(2010年1月29日更新、2017年4月16日閲覧)</ref>
 
文化人類学者[[クロード・レヴィ=ストロース]]の曽祖父である<ref>[http://www.ambafrance-jp.org/%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%B4%E3%82%A3 在日フランス大使館公式サイトの記事「クロード・レヴィ=ストロースが100歳の誕生日」]より(2010年1月29日更新、2017年4月16日閲覧)</ref>。
== 概要 ==
 
フランスの作曲家。[[ウィーン]]の[[シュトラウス家|ヨハン・シュトラウス一族]]との血縁はない。しかしワルツ王[[ヨハン・シュトラウス2世]]と同時代の「シュトラウス」姓の音楽家だったことからしばしば混同され、注目を集めた。イザークの作品は出版される際に「ヨハン・シュトラウス作曲」と表紙に書かれることもあった<ref name="小宮(2000) p.100">[[#小宮(2000)|小宮(2000)]] p.100</ref>。イザークの写真の下に「ヨハン・シュトラウス(1825 - 1899)」と書かれた[[絵葉書]]も残っている<ref name="小宮(2000) p.101">[[#小宮(2000)|小宮(2000)]] p.101</ref>。
== 概要生涯 ==
[[1806年]]、[[ストラスブール]]で生まれた<ref name="ベルトレ(2011) p.10">[[#ベルトレ(2011)|ベルトレ(2011)]] p.10</ref>。早くから[[パリ]]に移住し、[[ヴァイオリニスト]]として活動した。[[1830年代]]に彼が創設した楽団は頭角を現し、フランス国王[[ルイ・フィリップ (フランス王)|ルイ=フィリップ1世]]の夜会の音楽担当責任者になった<ref name="ベルトレ(2011) p.10"/>。[[オペレッタ]]の大作曲家として知られる[[ジャック・オッフェンバック]]の友人であり、仕事上の協力関係にあった<ref name="ベルトレ(2011) p.10"/>。『[[地獄のオルフェ]]』の劇中に登場する[[カドリーユ]]は、ストロースが作曲したものである。
 
ストロースは[[オペラ座]]の舞踏会の責任者に任命され、宮廷のために[[ワルツ]]などの舞踏音楽を演奏した<ref name="ベルトレ(2011) p.10"/>。[[マチルド・ボナパルト]]皇女によってサロンに迎え入れられ<ref name="ベルトレ(2011) p.10"/>、また[[パリ音楽院管弦楽団|パリ音楽院合奏団協会]]の設立にも参加した<ref name="ベルトレ(2011) p.11">[[#ベルトレ(2011)|ベルトレ(2011)]] p.11</ref>。フランス皇帝[[ナポレオン3世]]は、当時はまだ高位の者にふさわしい居住地区がなかった[[ヴィシー]]に保養に出掛ける際、「ヴィラ・ストロース」と呼ばれるストロースの豪華な邸宅に宿泊したという<ref name="ベルトレ(2011) p.11"/>。
 
フランスの作曲家。[[ウィーン]]の[[シュトラウス家|ヨハン・シュトラウス一族]]との血縁はない。しかしが、ワルツ王[[ヨハン・シュトラウス2世]]と同時代の「シュトラウスStrauss」姓の音楽家だったことからしばしば混同され、注目を集めた。イザークの作品は出版される際に「ヨハン・シュトラウス作曲」と表紙に書かれることもあった<ref name="小宮(2000) p.100">[[#小宮(2000)|小宮(2000)]] p.100</ref>。イザークの写真の下に「ヨハン・シュトラウス(1825 - 1899)」と書かれた[[絵葉書]]も残っている<ref name="小宮(2000) p.101">[[#小宮(2000)|小宮(2000)]] p.101</ref>。
 
== 家族 ==
[[File:Isaac Strauss by Antoine Maurin.jpg|thumb|right|210px|若い頃のストロース({{仮リンク|アントワーヌ・モーラン (画家)|label=アントワーヌ・モーラン|en|Antoine Maurin (painter)}}画)]]
娘の一人であるレア・ストロースは、ギュスターヴ・レヴィと結婚した。彼らの息子であるレイモンは、両親の姓を組み合わせて「'''レヴィ=ストロース'''」を名乗った<ref name="ベルトレ(2011) p.11"/>。レイモンは[[エコール・デ・ボザール]]に入学し、画家を職業とした<ref name="ベルトレ(2011) p.12">[[#ベルトレ(2011)|ベルトレ(2011)]] p.12</ref>。レイモンは[[はとこ]]にあたるエンマ・レヴィと結婚した<ref name="ベルトレ(2011) p.12"/>。レイモンとエンマの息子が[[クロード・レヴィ=ストロース]]であり、彼はイザークやレイモンといった芸術家を先祖に持ったおかげで音楽に多大な関心を寄せるようになった(若い頃にオペラの作曲を行おうとして断念したという)。
 
== 出典 ==
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== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=[[小宮正安]]|date=2000-12-10|title=[[ヨハン・シュトラウス2世|ヨハン・シュトラウス]]:ワルツ王と落日のウィーン|series=[[中公新書]]|publisher=[[中央公論新社]]|isbn=4-12-101567-3|ref=小宮(2000)}}
*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|ドニ・ベルトレ|fr|Denis Bertholet}}|translator=[[藤野邦夫]]|date=2011-12-20|title=[[クロード・レヴィ=ストロース|レヴィ=ストロース]]伝|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4-06-215005-7|ref=ベルトレ(2011)}}
 
== 外部リンク ==
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* {{IMSLP|id=Strauss, Isaac|cname=イザーク・シュラウロース}}
 
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{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:しゆらうす いさく}}
[[Category:フランスの指揮者]]
[[Category:フランスの作曲家]]