「源義経」の版間の差分
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妻には頼朝の媒酌による正室の[[河越重頼]]の娘・[[郷御前]]、[[鶴岡八幡宮]]の舞で有名な愛妾の[[白拍子]]・[[静御前]]、平氏滅亡後に[[平時忠]]が保身のために差し出したとされる時忠の娘・[[蕨姫]]がある。子には、都落ち後の逃避行中に誕生し衣川館で義経と共に死亡した4歳の女児、静御前を母として生まれ、頼朝の命により出産後間もなく[[由比ヶ浜]]に遺棄された男児が確認される。
他には[[源有綱]]が義経の婿と称していることから、有綱の妻を義経の娘とする説もある<ref>[[#Uwayokote|上横手ら]] [2004] [[野口実]],p.95</ref>]]。<ref group="注釈">ただし、妹の夫を「聟」と称する用法もあることから、義経が京都を離れた後の文治2年6月6日に常盤とともに捕らえられた義経の異母妹(父は一条長成)を有綱の妻とする保立道久(『義経の登場』日本放送出版協会、2004年)や細川涼一(「常盤」『日本中世の社会と寺社』思文閣出版、2013年(原論文は2009年))の説もある。</ref>。また『清和源氏系図』に千歳丸(ちとせまる)という3歳の男子が奥州[[衣川]]で誅されたと記されており、『吾妻鏡』[[文治]]3年2月10日条に義経が奥州入りした際、「妻室男女を相具す(正室と男子と女子の子供を連れていた)」とあることから、この「男」が千歳丸に相当する可能性があるが、『吾妻鏡』で衣川で死亡した子は4歳女児のみとなっていることから、男児の存在についての真偽は不明である<ref>[[#Oomiwa|大三輪ら]] [2005] 下山忍,p.154</ref>。▼
▲また『清和源氏系図』に千歳丸(ちとせまる)という3歳の男子が奥州[[衣川]]で誅されたと記されており、『吾妻鏡』[[文治]]3年2月10日条に義経が奥州入りした際、「妻室男女を相具す(正室と男子と女子の子供を連れていた)」とあることから、この「男」が千歳丸に相当する可能性があるが、『吾妻鏡』で衣川で死亡した子は4歳女児のみとなっていることから、男児の存在についての真偽は不明である<ref>[[#Oomiwa|大三輪ら]] [2005] 下山忍,p.154</ref>。
=== 人間像 ===
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