「谷風梶之助 (2代)」の版間の差分
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=== 横綱へ - 現役死 ===
[[1789年の相撲|1789年]](寛政元年)[[11月19日 (旧暦)|11月19日]]<ref>著者不詳『寸錦雜綴』吉川弘文館(日本随筆大成・巻4)1927年、135頁</ref>、小野川喜三郎とともに[[吉田司家]]の吉田追風から最初の横綱免許を授与される。この時が実質の横綱制度の発祥とする見方が現在では定説である。当時描かれた錦絵には5代目市川團十郎などの歌舞伎役者や当時の美女などと共に自身が描かれている<ref> Sports Graphiv Number PLUS April 2017(文藝春秋、2017年4月10日)p60-62</ref>。[[1791年]](寛政3年)[[6月11日 (旧暦)|6月11日]]には[[徳川家斉]]の上覧相撲で、小野川喜三郎と取り組みを行う。この時に将軍家から弓を賜り、これを手に土俵上で舞ってみせたのが現在の[[弓取式]]の始まりとされる。
[[1795年]](寛政7年)[[1月9日 (旧暦)|1月9日]]、江戸全域で猛威を奮った[[インフルエンザ]]によって、35連勝のまま現役死した。{{没年齢|1750|9|8|1795|2|27}}。このことから風邪を「タニカゼ」と呼ぶようになったと伝えられているが、正しくは、谷風が生前に「土俵上でワシを倒すことは出来ない。倒れているところを見たいのなら、ワシが風邪にかかった時に来い」と語った時に流行っていた流感を「タニカゼ」と呼んだものである。死因となった流感は「御猪狩風」と呼ばれたが、後に「タニカゼ」と混同されるようになった。
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