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宝亀7年([[776年]])[[大伴益立]]に替わって、[[備中国#国司|備中守]]・大神末足とともに[[遣唐使|遣唐副使]]に任ぜられる。翌宝亀8年([[777年]])正月に[[播磨国#国司|播磨守]]任ぜられ、2月には[[春日山 (奈良県)|春日山]]の麓で遣唐事業の成功を祈願して[[祭祀]]を行う<ref>『続日本紀』宝亀8年2月6日</ref>。しかし、同年4月に遣唐大使・[[佐伯今毛人]]が光仁天皇に出発の暇乞いまでしながら俄に発病し、[[摂津職]]に留まって出発できなくなってしまったため、石根が[[勅]]を受けて大使の職務を代行することとなった<ref>『続日本紀』宝亀8年4月17日条,同22日条</ref>。なお佐伯今毛人の代わりの大使は立てられず、石根が副使のまま大使の職務を代行を命じられている<ref>『続日本紀』宝亀8年6月1日</ref>。
同年6月24日に第16次遣唐使一行は出帆し7月3日に[[揚州 (江蘇省)|揚州]][[海陵県]](現在の[[江蘇省]][[泰州市]])に到着。その後一行は[[長安]]へ向かうが、[[安史の乱]]による[[駅舎]]の荒廃を理由に入京人数を43名に制限される。翌宝亀9年([[778年]])正月に長安に到着し貢ぎ物を進上、3月には[[皇帝]]・[[代宗 (唐)|代宗]]への拝謁も果たす。同年9月より一行は順次帰国の途につき、石根や唐の送使・[[趙宝英]]が乗った第一船は
宝亀10年([[779年]])石根の水難を悼んで、[[従四位|従四位下]]の[[贈位]]がなされた。
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