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[[寛保]]2年([[1742年]])12月11日に幸千代は[[元服]]し、将軍[[徳川吉宗]]から[[偏諱]]を授かって宗衍と名乗り{{R|財団}}、従四位下に叙位され、侍従に任官、のち出羽守を兼任した。
 
成長した宗衍は[[延享]]4年([[1747年]])に家老による合議制を廃止し、「御直捌」(おじきさばき){{R|再生|page1=233}}と呼ばれる藩主[[親政]]を行うこととした{{R|朝日|財団|観光}}。[[中老]][[小田切尚足]](小田切備中)を補佐役に登用し、'''御趣向の改革'''(ごしゅこうのかいかく、[[延享]]の改革)と呼ばれる積極的な財政振興策を執った{{R|財団|朝日}}。改革は一部成功するものの、相次ぐ天災、藩内で改革に対する反対派が力を盛り返したため、[[宝暦]]2年([[1752年]])に改革は停止されて尚足は失脚した{{R|朝日}}。宝暦5年([[1755年]])11月26日に、宗衍は左近衛権少将に転任している(出羽守は元のまま)。
 
宝暦10年([[1760年]])、幕命により[[比叡山延暦寺]]山門の修築の普請手伝いを命じられる。重臣たちはこの普請手伝いの失敗で藩領半減も覚悟していたが、小田切尚足や[[朝日茂保]]を仕置役に任命することで滞りなく成就している{{R|再生|page1=229}}。もっとも、普請手伝いは乗り切ったものの、藩財政が窮乏を究めていたのも事実であり、周囲からは「雲州様(松江藩の藩主)滅亡」とまで噂されたと言う。