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=== 趣味 ===
狩りが好き、暮に迨んで帰るのが常だった。呉県にいこうとして親しく乗馬し、庱亭で虎を射た。馬が虎に傷つけられたので孫権は双戟を投げたところ、虎は怯んだので、近侍の張世が戈で撃ってこれを獲えた。時には群を逸れた獣があって、そのたび復た車を犯したが、孫権は事毎に手ずから撃って楽しんだ。また[[張遼]]の言によると、武芸においては馬をよく操り、騎射が得意であったという(『帝春秋』)。北宋の詩人である蘇軾の『江城子・密州出獵』には「親射虎,看孫郎」と歌われている。
 
また書を好み、隷書と草書と行書が巧みで<ref>『[[書史会要]]』に「大帝孫氏,諱權,字仲謀,堅之子,善行草隸」という。</ref>、唐の張懐瓘の『書估』では、「奇材見拔,絶世難求」と評されている。
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『異同雑語』の著者の[[孫盛]]は、「孫権が士を養うさまを見ると、心を傾けて思いをつくすことで、その死力を求めたのである(觀孫權之養士也,傾心竭思,以求其死力)」と評した。
 
陸遜の孫[[陸機]]は、「太祖(孫権)は徳を以て成し、聡明睿達にして、懿度深遠であった。賢者を求めるに果てしもなく、民を幼子のように哀れみ慈しみ、人に接するに優れた徳を盡し、仁者に親しむ際は心の底から愛を尽くした。呂蒙を軍隊より抜擢し、潘濬を捕虜の中に見出した。誠信なる人物を推挙し、人が自分を欺くことなど憂えず、才能を量って適所に用い、それらの権力が自分を冒すなども憂うことは無かった。馬に乗り鞭を取っても身をかがめて敬いつつしむことで、陸公(陸遜)の威厳を重くし、近衛兵まで悉く委ねることによって、周瑜の軍を救った。宮殿は質素にし、食事も粗末にして、功臣への恩賞を豊かにし、心を開き人の話によく耳を傾けて、国家の大計を唱える者の意見を容れた。それだから魯粛は一度会っただけで自らを託し、士燮は險を冒して臣下となることを望んだのである。張公(張昭)の德を尊び、そうして狩の楽しみを減らし、諸葛瑾の言うことを尊んで、情欲の楽しみを割き、陸公の規(いましめ)に感じ入って刑罰に関する政治の煩しさを取り除き、劉基の議論を優れているとして「三爵之誓」を作り、身の置き所のないほど、おそれ慎んでいる子明(呂蒙)の病を見舞い、滋養のある物を分け与え、甘い物を減らして凌統の孤児を育て、天子の位に就き、意気上がり感激するにも、それを魯粛の功績に帰し、悪言など見向きもせずに子瑜(諸葛瑾)の忠節を信じた。こういう訳で忠臣達は競って其の謀を尽くし、志士は皆尽力することができたし、大計は遠略にして、固より区々たるに飽きぬものであった。だから百官は幾らかまとまってはいたが、庶務については未だ手が回らなかった」と評した。また誄文を著しその死を悼んでいる<ref>『[[宋書]]·卷十九·志第九』より</ref>
 
== 逸話 ==
濡須口の戦い際は,曹操は孫権の長江西岸の陣を攻撃して打ち破り部将の公孫陽を捕らえるなどしたが決定打には欠いた。孫権は自ら軽船に乗って来り、濡須口より曹操の軍営に入った。諸将は皆なこれは挑戦者だと考え、これを撃とうとした。曹操「これはきっと孫権が自ら我が軍の部伍を見ようとしたものだ、 軍中皆なに厳戒させ、弓弩を妄りに発させなかった。」孫権は行くこと五・六里で迴頭し、帰還には鼓吹を為した。曹操は孫権の布陣に少しの乱れも無いことに感嘆し、「息子を持つならまさに孫権のようなのがいい」(生子當如孫仲謀)と周囲に語ったという。中国ではことわざとして、若い世代を称賛する時に使う。孫権が曹操への札簡で説くには 「春はまさに水が生ず。君は宜しく速やかに去るべし。」別の紙で言うには、「足下が死なねば私は安んずる事が出来ぬ。」曹操が諸将に語るには「孫権は私を欺かぬ」かくして軍を徹収して帰還した (『呉録』)
 
孫権は呉王に封建されると酒宴を開いて自ら酒を注いで回ったが、[[虞翻]]は酔い潰れた演技でやり過ごし、孫権が去るとすぐに居住まいを元の如く正した。孫権は大いに怒り、かつて[[曹操]]が[[孔融]]を処刑した例を引き合いに虞翻を斬ろうとしたが、大臣の[[劉基 (呉)|劉基]]が理を尽くして諭した為に遂に虞翻を許した。後に酔いが醒めた孫権は自分の行いを大いに悔い、「以後は酒宴の場で自分が下した命は無効とする」と触れを下した(『虞翻伝』)。)。
 
孫権は[[鄭泉]]を郎中に任じ、かつて言うには「卿は衆人の中で面と諫める事を好むが、礼と敬意を失する事がある。逆鱗を畏れることがあるのか?」「臣は君が明であれば臣は直だと聞きます。今、朝廷は上下とも無諱の時に遭っております。まことに洪恩を恃んでおり、龍鱗などは畏れておりません」鄭泉に宴会に侍り、孫権は怖れさせようと連れ出させて有司に付し、治罪を促した。鄭泉はこのときしばしば顧みた。孫権は呼び還して笑って曰った「あら、卿は龍鱗を畏れぬと言ったが、どうして出される時に顧みたのだ?」「まことに恩寵が篤く、死の憂いが無いと知っていたのですが、出閤の際に威霊に感応して顧みずにはおられなかったのです」
 
武昌で「長安」なる巨大戦艦の進水式を行った際、孫権も船に乗っていたのだが、羅州まで向かう途中で風が激しく吹き、長江が大いに荒れた。万一を危惧した側近達は船長に樊口に向かうように命じたが、大いにはしゃいでいた孫権はそのまま羅州まで向かえと命令を出した。 見かねた側近の[[谷利]]が船長に刃を突きつけ「樊口へ向かえ。さもなくば斬る」と脅したため、結局樊口に停泊した。君命を無視された孫権は谷利に「利ちゃん、何故そんなに水を怖がるのだね」とぼやいたところ、谷利に「もし船が転覆したならば、国家の事業をどうされるのでございますか。ですので谷利は、あえて死をかけてお止めしたのでございます」と諭されている。
 
陸遜が曹休を破った際、孫権は大宴を開いた。酒に酔った孫権は陸遜に命じ、二人で共に舞を踊った。その時着ていた白いモモンガの毛皮で作った衣服を脱いで下賜した(『呉書』『太平要覧』)
 
[[西晋|晋]]の『古今注』によると、六振りの宝剣と三振りの宝刀を所持していたという。剣は「[[白虹]]」「[[紫電]]」「辟邪」「流星」「青冥」「百里」、刀は「百錬」「青犢」「漏影」という。それに彼が持つ神鋒弩、射程は三里(1.5キロ)、三頭の馬を貫くことができる <ref>『藝文類聚』に引く『會稽典録』</ref>
 
孫権が呉王になると、方士の介象に隠形の術を学び、姿を隠したまま殿門を出入りして見たところ、誰も孫権 に気がつかなかったという(『神仙伝』)。