「ムハンマド・ナジーブッラー」の版間の差分
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{{出典の明記|date=2017年9月}}
'''ムハンマド・ナジーブッラー'''({{lang-ps|محمد نجيب الله}}、
[[日本]]の報道や書籍ではほとんど「ナジブラ」と表記・呼称されていた。
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[[1979年]]、[[ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻|ソ連のアフガン侵攻]]が起こると[[首都]]カーブルに戻り、翌年には[[秘密警察]]'''KHAD'''の長官に任命された。{{要出典範囲|date=2017年9月|当時のアフガンでは暴動やテロの危険が高まっており}}、数万人に及ぶアフガン国民({{要出典範囲|date=2017年9月|暴徒も含む}})がKHADにより[[逮捕]]、[[拷問]]、[[処刑]]されたとされる。1983年、中将。
1986年5月4日、[[バブラク・カールマル]]
しかし[[1989年]]に[[ソ連軍]]が撤退すると、彼自身が任命した国防相によるクーデターが発生し、独裁的政治手法を緩めるなど懐柔策をとったが、[[ムジャーヒディーン]]勢力の抵抗運動に屈服
===殺害===
しかし[[1996年]][[9月26日]]に[[イスラム原理主義]]勢力[[ターリバーン]]がカーブルを制圧し、政権を獲得するとナジーブッラーは国連が用意した逃亡用の自動車から引きずり出され、捕縛された。翌日27日、'''アフガニスタンを混迷に陥れ、神の意思に従わぬ背信者'''などとして局部を切り取られた上に市内を車で引きずり回され、その遺体は吊るし上げられた。ナジーブッラー側近として国家保安省警護局長を務めていた実弟アフマジャイ将軍も同時に捕縛・殺害され、共に遺体を吊るされた。
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<references />
* [[アフガニスタンの国家元首の一覧]]▼
== 参考文献 ==
*「[https://ir.ide.go.jp/?action=repository_uri&item_id=39066 重要日誌 アフガニスタン 1986年]」 『アジア・中東動向年報 1987年版』 [[アジア経済研究所]]、1987年
*「[https://ir.ide.go.jp/?action=repository_uri&item_id=39042 重要日誌 アフガニスタン 1987年]」 『アジア動向年報 1988年版』 アジア経済研究所、1988年
* 遠藤義雄「[https://ir.ide.go.jp/?action=repository_uri&item_id=38918 政権交代と内戦の激化 : 1992年のアフガニスタン]」 『アジア動向年報 1993年版』 アジア経済研究所、1993年
== 関連項目 ==
▲* [[アフガニスタンの国家元首の一覧]]
{{先代次代|アフガニスタン大統領|[[1987年]] - [[1992年]]|[[ハジ・モハンマド・チャムカニ]]<br>(大統領代行)|[[:en:Abdul Rahim Hatef|Abdul Rahim Hatef]]<br>(暫定大統領)}}▼
{{先代次代|
▲{{先代次代|アフガニスタン大統領|[[1987年]] - [[1992年]]|
{{先代次代|革命評議会議長|[[1987年]]|[[ハジ・モハンマド・チャムカニ]]<br />(議長代行)|(大統領制移行)}}
{{DEFAULTSORT:なしふつら むはんまと}}
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[[Category:アフガニスタンの亡命者]]
[[Category:カーブル出身の人物]]
[[Category:1947年生]]▼
[[Category:1996年没]]▼
[[Category:拷問被害者]]
[[Category:刑死した人物]]
▲[[Category:1947年生]]
▲[[Category:1996年没]]
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