「源融」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
経歴セクション追記 |
経歴情報追加(二度太政官の首班となる) |
||
31行目:
[[仁明天皇|仁明朝]]の[[承和 (日本)|承和]]5年([[838年]])[[元服]]して[[正四位|正四位下]]に[[蔭位|直叙]]され、承和6年([[839年]])[[侍従]]に任ぜられる。仁明朝末の承和15年([[848年]])[[近衛府|右近衛中将]]に任ぜられると、[[嘉祥]]3年([[850年]])正月に[[従三位]]に叙せられ、29歳で[[公卿]]に列す。[[文徳天皇]]の[[即位]]後の同年5月に[[衛門府|右衛門督]]に任ぜられて引き続き武官を務め、[[斉衡]]3年([[856年]])[[参議]]に昇った。
[[清和天皇|清和朝]]に入っても、[[天安 (日本)|天安]]4年([[859年]])[[正三位]]、貞観6年([[864年]])[[中納言]]と順調に昇進する。この頃、異母兄の[[左大臣]]・[[源信 (公卿)|源信]]と[[大納言]]・[[伴善男]]が不和の状況にあったが、同年冬には源信が融・[[源勤|勤]]兄弟と反逆を謀っているとの投げ文があり、騒ぎになったという<ref>『日本三代実録』貞観10年閏12月28日条</ref>。その後、貞観8年([[866年]])[[応天門の変]]が発生して、伴善男は[[失脚]]、源信は籠居して出仕を取り止めてしまい、結局貞観10年([[868年]])に源信も事故死してしまった。加えて、この間の貞観9年([[867年]])には[[右大臣]]・[[藤原良相]]
しかし、貞観18年([[876年]])自ら[[東宮傅]]として仕えた貞明親王([[陽成天皇]])が即位すると、約15歳年下で太政官の席次も下位の右大臣であったにもかかわらず、[[藤原基経]]が[[天皇]]の[[外戚]]として[[摂政]]に任じられたため、融は[[上表]]を出して自宅に引籠もった<ref>『[[日本三代実録]]』及び『[[中右記]]』</ref>
元慶8年([[884年]])陽成天皇の[[譲位]]によって[[皇嗣]]を巡る論争が起きた際、「いかがは。近き[[皇胤]]をたづねば、融らもはべるは」(自分も[[皇胤]]の一人なのだから、候補に入る)と主張したが、[[源氏]]に下った後に即位した例はないとして、基経に退けられたという逸話がある<ref>『[[大鏡]]』太政大臣基経</ref>。しかし当時、融は私籠中であり、史実であるかどうかは不明である。結局、[[光孝天皇]]が即位すると融は政務に復帰した。
[[宇多天皇|宇多朝]]の[[寛平]]7年([[895年]])8月25日[[崩御#薨去|薨去]]。[[享年]]74。最終[[官位]]は左大臣従一位。没後[[正一位]]の[[贈位]]を受けた。▼
▲[[宇多天皇|宇多朝]]の[[寛平]]3年([[891年]])[[関白]]太政大臣・藤原基経が没し、融は再び太政官の首班に立った。寛平7年([[895年]])8月25日[[崩御#薨去|薨去]]。[[享年]]74。最終[[官位]]は左大臣従一位。没後[[正一位]]の[[贈位]]を受けた。
== 人物 ==
43 ⟶ 44行目:
[[陸奥国]][[塩竈市|塩釜]]の風景を模して作庭した[[河原院|六条河原院]](現在の[[渉成園]])を造営したといい、[[世阿弥]]作の[[能]]『[[融]]』の元となった。六条河原院の塩釜を模すための塩は、[[難波]]の海([[大阪湾]])の北(現在の[[尼崎市]])の汐を汲んで運ばれたと伝えられる。そのため、源融が汐を汲んだ故地としての伝承がのこされており、尼崎の[[琴浦神社]]の祭神は源融である。また融の死後、河原院は息子の[[源昇|昇]]が相続、さらに[[宇多天皇|宇多上皇]]に献上されており、上皇の滞在中に融の亡霊が現れたという伝説が『[[今昔物語]]』『[[江談抄]]』等に見える。
== 源融流嵯峨源氏 ==
| |||