「フィリップ (エディンバラ公)」の版間の差分
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女王一家の姓は「ウィンザー」のままであり、フィリップの姓である「マウントバッテン」に変わらなかった。1960年に夫妻の子孫の姓を「マウントバッテン=ウィンザー」とすることになったものの、フィリップの屈辱的な思いは残った。''Prince Consort''の称号を得られなかったことは、フィリップに屈折した心理を生み、王子や王女たちにも悪影響を及ぼしたと言われる<ref>八幡和郎 『お世継ぎ-世界の王室・ 日本の皇室』 文春文庫、2007年、16-18頁、28頁。</ref>。
しかし王室の改革、近代化に積極的で、初めて王室の日常を[[テレビジョン]]で公開するなど、王室と国民の関係を近いものにすることに心を砕いた。なおこのような改革について[[エリザベス・ボーズ=ライアン|エリザベス皇太后]]との確執があったが、後に沈静化した。
南極大陸・南大西洋の訪問を機に自然保護への関心を深め、[[世界自然保護基金]]の初代総裁を務めた。また、イギリス国内の[[ケンブリッジ大学]]や[[エディンバラ大学]]、[[ソルフォード大学]]などの総長なども務めている。▼
▲また南極大陸・南大西洋の訪問を機に自然保護への関心を深め、[[世界自然保護基金]]の初代総裁を務めた。また、イギリス国内の[[ケンブリッジ大学]]や[[エディンバラ大学]]、[[ソルフォード大学]]などの総長なども務めている。
1956年には「エディンバラ公賞」([[:en:The Duke of Edinburgh's Award|The Duke of Edinburgh's Award]])を設立し、優れた技能を持った世界各国の若者を表彰している。特に、自然保護に貢献のあった人物を表彰していることで有名である。
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