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僧兵 (会話 | 投稿記録)
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== 沿革 ==
*もともと飯田のこの地は、[[鎌倉街道]]上ノ道が通り、[[身延山]]に隠棲した[[日蓮]]が、湯治のため[[常陸国]]に向かう途中に通過し、また、没後の遺骨も通過したゆかりの地であったという。鎌倉の地(現:[[鎌倉市]]大町)に[[延元]]元年([[1336年]])、日蓮の門弟「[[九老僧]]」の一人[[天目]]が休息山本興寺を建立した。[[永徳]]2年([[1382年]])、[[日什]]が2世となり、山号を法華山と改める。[[辻説法]]の由緒地に程近く、「辻の[[本興寺 (鎌倉市)|本興寺]]」とよばれた。のちに日什が開創した[[京都]][[妙満寺]]を[[本寺]]とする日什門流(什門)の寺となった。星霜を経た[[慶長]]13年([[1608年]])、本興寺27世から妙満寺27世となった[[日経]]が不受不施を説いたため、[[江戸幕府]]によって京都[[六条河原]]で耳・鼻削ぎの刑に処せられ、関連寺院は取り潰された。これを[[慶長の法難]]という。日経が与同した[[日奥]]らの[[不受不施派]]は、[[キリシタン]]とならんで幕府の厳しい詮議の対象となった。このため、30世日顕により[[万治]]3年([[1660年]])、日蓮ゆかりという[[鎌倉郡]]飯田村の当地に寺基を移し、法灯を伝えることとなったのである。なお、辻の旧地にも[[寛文]]10年([[1670年]])、比企谷[[妙本寺]][[日逞]]により鎌倉に[[本興寺 (鎌倉市)|本興寺]]が再興され、妙本寺[[末寺]]となって現在に至っている。
*什門の名刹として、その後、[[戦前]]に至るまで[[顕本法華宗]][[本山]]であった。同宗は政府の意向により[[1941年]]日蓮宗と合同した。[[戦後]]再独立派の大本山妙満寺、本山妙法寺、本山天妙國寺、本山寂光寺等200箇寺が分離したものの、身延残留派は日蓮宗に残り本興寺は什門4本山(妙國寺、本興寺、玄妙寺、妙立寺)の一つとなる。なお中間派は単立として現在に至る(品川本光寺等)。
*日蓮宗に残留した180箇寺は宗内で「[[日蓮宗什師会]]」を組織している。