「イワン・レオニドフ」の版間の差分

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1927年、抽象的な立体幾何学図形のみで構成された[[卒業制作]]の「レーニン研究所」で才能を注目され、卒業後に母校教員として採用される。
こうして1927年から1930年まで、ウヴデマス[[建築学部]]で教鞭をとることとなるほか、ソ連重工業省の大規模プロジェクトに長くかかわっていた。
しかし1930年代後半からは、[[ロシア構成主義]]的な建築はスターリン主義体制の批判と抑圧に遭ったこともあり、そのためか生涯一度も自作の建築を建てることがなかった。第二次世界大戦後展覧会のインスタレーションなど晩年まで不遇で実作の機会を得られず、[[アルコール依存症]]となり、その結果事故に遭遇し夭逝する。が、「レーニン研究所」や「重工業省ビル」コンペ案、「マグニトゴルスク都市計画」などの計画案は、後世に大きな影響を与えている。[[ル・コルビジュエ]]がとりわけ高く評価し、カール・モーザーにあてた手紙にわざわざ括弧つきで「傑出している」と書き、[[レム・コールハース]]が傾倒した建築家としても知られる。
 
== 初期の人生 ==