「羽田野敬雄」の版間の差分
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'''羽田野 敬雄'''(はだの/はたの たかお、[[1798年]][[3月30日]]〈[[寛政]]10年2月14日〉 - [[1882年]]〈[[明治]]15年〉6月1日)は、[[三河国]][[宝飯郡]]西方村(現・[[愛知県]][[豊川市]][[御津町 (愛知県)|御津町]]西方)出身の
[[平田篤胤]]門下の国学者であり、なおかつ神職だった。[[明治政府]]の[[神仏分離令]]によって生じた[[廃仏毀釈運動]]の推進者であり、神職の地位向上に貢献した{{sfn|愛知教育文化振興会|1997|p=15}}。近代的[[図書館]]活動の先駆者でもあり、自らの蔵書を元に設立した「[[羽田八幡宮文庫]]」を一般市民に広く公開した{{sfn|日外アソシエーツ編集部|2005|p=55}}。
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21歳だった文政元年(1818年)には[[渥美郡]]羽田村(現・[[豊橋市]])の神主である羽田野上総敬道の養子となった{{sfn|愛知教育文化振興会|1997|p=12}}。9月23日には敬道の娘で15歳の美寿との婚儀を行い、羽田野家第7代となって養父の跡を継いだ{{sfn|羽田野敬雄研究会|1994|p=508}}。羽田神明宮(現・湊神明社)と別宮・[[羽田八幡宮]]の神主となり、名を常陸敬雄と改めた{{sfn|愛知教育文化振興会|1997|p=12}}。敬道は50歳の時に西宿(現・豊橋市花田町西宿)の秋葉社から羽田野家に入った人物である{{sfn|羽田野敬雄研究会|1994|p=506}}。広大な新田を有する資産家だった敬道は、羽田八幡宮の本殿・拝殿・神主屋敷などを一新し、神域は一変したとされている{{sfn|羽田八幡宮文庫史編集委員会|1998|p=3}}。高齢だった敬道は当初から養子を迎えることを検討しており、文化10年(1813年)には[[遠江国]][[豊田郡]]半場村から養子を迎えているが、4年ほどして不縁となっていた{{sfn|羽田野敬雄研究会|1994|p=506}}。
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[[File:Portrait of Atsutane Hirata.jpg|thumb|師の[[平田篤胤]]]]
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また羽田野は人々の神社への関心を高めることを目的として、三河国の[[式内社]]26座の案内石柱を建立している{{sfn|羽田八幡宮文庫史編集委員会|1998|p=19}}。安政3年(1856年)には八名郡神郷村に[[石巻神社]]の道標を建て、その後には渥美郡の[[阿志神社]]、[[設楽郡]]の[[石座神社 (新城市)|石座神社]]、宝飯郡の[[砥鹿神社]]、同じく宝飯郡の[[御津神社]]の道標を建てている{{sfn|羽田八幡宮文庫史編集委員会|1998|p=19}}。大国隆正、[[御巫清直]]、鈴木重胤、平田篤胤などに題字を依頼しており、この道標は今日も道端に残っている{{sfn|羽田八幡宮文庫史編集委員会|1998|p=19}}。
安政3年(1857年)には羽田八幡宮文庫脇に松蔭学舎を建設、この[[寺小屋]]は文庫の閲覧所としても機能し、文庫の[[図書館]]としての機能が整備されていった。このころの蔵書数は約1,000巻だったが、文久2年(1862年)には8,123巻となり、慶應3年(1867年)には10,000巻を超えた。羽田八幡宮文庫は[[神道]]や
=== 晩年 ===
[[File:Toyohashi City Central Library ac (4).jpg|thumb|「羽田文庫」を有する[[豊橋市中央図書館]]]]
慶応4年(1868年)に[[明治政府|明治維新政府]]が成立した際には、[[京都御所]]の守衛に召されている{{sfn|愛知教育文化振興会|1997|p=15}}。1868年(明治元年)には京都の[[皇学所・漢学所|皇学所]]の御用係に命じられた{{sfn|愛知教育文化振興会|1997|p=15}}。国学を教授するために設けられた皇学所の十数人のなかに、三河から羽田野、[[草鹿砥宣隆]]、竹尾正胤の3人が選ばれているのは、この地方における平田派の水準が高かったことを物語っている<ref name=tazaki311>[[#田崎|田崎(1993)p.311]]</ref>。しかし、羽田野自身は、翌年には老体を理由に[[豊橋市|豊橋]]に帰郷し、1869年(明治2年)には宝飯郡[[国府町 (愛知県)|国府村]](現・[[豊川市]]国府町)の修道館の学頭となって
=== 死後 ===
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