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雑賀党の鈴木氏が本格的に歴史にあらわれるのは、「雑賀孫市」の通称で知られる[[鈴木孫一]]が活躍した[[16世紀]]の中頃以降で、雑賀衆のほかの土豪たちと同様、[[鉄砲伝来]]から間もない早い時期に鉄砲を使った戦術を取り入れ、[[16世紀]]の半ばには鉄砲で武装した、ある程度の規模の傭兵的集団として活動していたようである。
[[1570年]](元亀元年)に[[織田信長]]が[[大阪|大坂]]の[[石山本願寺]]と開戦して[[石山戦争]]が起こると、鈴木孫一の率いる鈴木党は、他の雑賀衆の集団とともに本願寺の門主[[顕如]]の求めに応じて本願寺に入り、織田軍と戦った。鈴木孫一は浄光寺末の一道場の門徒代表に過ぎず、雑賀一向衆の指導者集団であった年寄衆よりも格下の存在であったが、[[石山本願寺]]に篭った雑賀衆の中では最有力の頭目のひとりで、孫一自身も本願寺の門徒でもあったので、本願寺にきわめて信頼された
[[1577年]](天正5年)に本拠地の雑賀が織田軍の侵攻を受けると、紀ノ川北岸にあった鈴木氏の所領は真っ先に攻撃を受けて占領され、紀ノ川南岸での戦いも劣勢であったために、鈴木氏は他の有力者たちとともに[[織田氏]]への服属を誓って降伏した。翌年には織田氏への服属を反故にすると、再び本願寺に荷担した。[[1580年]](天正8年)、[[顕如]]が最終的に抗戦を断念に、[[石山本願寺]]を退去して雑賀の鷺森に移ると、鈴木氏もこれに従い、[[織田氏]]に服属する。これ以降、力を失った本願寺に代わって織田氏に服属しようとする鈴木氏と、それに反対する反織田派との間で争いが起こり、鈴木孫一は[[1582年]](天正10年)に[[土橋氏]]の当主を殺害、雑賀衆の主導権を握った。同年に[[本能寺の変]]が起こって信長が死んだため、後ろ盾を失った孫一は雑賀を逃亡の後、[[豊臣秀吉]]を頼る。[[小牧・長久手の戦い]]から[[文禄・慶長の役]]にいたる秀吉の一連の戦役に参加した[[豊臣氏|豊臣家]]の鉄砲頭の中に、孫一を含め数人の鈴木姓の名が見える。この間、[[1585年]](天正13年)に秀吉は紀伊征伐を行って雑賀衆を滅ぼした。先述した鈴木佐太夫はこのとき[[藤堂高虎]]によって殺されたということになっている。
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== 脚注 ==
<references/>
== 参考文献 ==
* {{Citation|和書|last=武内|first=善信|author-link=|contribution=雑賀一揆と雑賀一向一揆|editor=大阪真宗史研究会|date=2005-8|title=真宗教団の構造と地域社会|publisher=清文堂出版|isbn=4-7924-0589-0|ref=harv}}
== 関連項目 ==
* [[鈴木]]
== 外部リンク ==
* {{Wayback |url=http://www.iris.dti.ne.jp/~min30-3/magoichi/fujisiro.htm |title=藤白鈴木会 公式サイト |date=20131203015231}} - (開設日
{{DEFAULTSORT:すすきし}}
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