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1970年には「文藝首都」を通じて、後に伝奇小説作家、[[紀和鏡]]としてデビューすることになる山口かすみと知り合う。かすみの妊娠を機に、結婚する。入籍時、名字の読み方をそれまでの「なかうえ」から「なかがみ」に変更する。妊娠、結婚をきっかけに健次は肉体労働を始め<ref>男に結婚の決意などいらない『鳥のように獣のように』所収</ref>、8月から[[東京国際空港|羽田空港]]で貨物の積み下ろし業務に従事する。その後、宅配業や[[フォークリフト]]の運転手などをして家計を支えながら執筆に専念した。<ref>働くことと書くこと『鳥のように獣のように』所収</ref><ref>ピクニック ・スト『鳥のように獣のように』所収</ref><ref>初発の者『鳥のように獣のように』所収</ref><ref>不思議な場所『鳥のように獣のように』所収</ref><ref>作家と肉体『鳥のように獣のように』所収</ref>
 
1973年以降、『十九歳の地図』『鳩どもの家』『浄徳寺ツアー』が続けて芥川賞候補となる。1976年[[紀伊国|紀州]]の「 路地」を舞台に、家業の[[土方]] {{Refnest|group="注釈"|記載者ことわり:土方という言葉は不適切な用語とされることもあるようだが、中上の作品の中で実際に普通に使われているこの言葉を避けて「肉体労働」等と婉曲に表現するのは、中上の文学世界を紹介する文脈ではむしろそのほうが不適切と考え、土方という語を使っている}} 仕事に従事{{Refnest|group="注釈"|小説の内容や、中上の独特の風貌から芥川賞受賞時、彼は「土方作家」と称されたが<ref>光をあびて『エレクトラ 中上健次の生涯』高山文彦『エレクトラ 中上健次の生涯』</ref>、実際は中上は、若干の手伝い程度で、本格的な土方仕事の経験はない。<ref>高澤秀次『中上健次事典:論考と取材日録』</ref>}} する青年を中心とした複雑な血族の物語を、緊密な文章で描いた『岬』{{Refnest|group="注釈"| *中上はもともとは岬以前に、最終的に岬に結実した複雑な親族の物語を、ギリシャ神話[[エーレクトラー]]をもとにして『エレクトラ』という220枚の長編に仕上げていたという。しかし、これは未熟な作であるとして、編集者から発表を拒否されている。(この原稿は、自宅の火災により焼失し、残っていない。)「芥川賞受賞のことば」(昭和51年3月「文藝春秋 」)に中上はこう記している。「言ってみれば 、書きたくてしょうがなかた小説だった 。ずいぶん昔から 、まだ力がない 、まだ駄目だ 、と 、はやる腕を 、筆を 、おさえてきた 。書きあげて 、ゲラ刷りになった小説を読んで 、ぼくは 、一人 、部屋で泣いた 。暑いさかりだった 。よく 、いままで 、じっとがまんしてきたと 、自分の 、小説家としての男気を 、汗のような涙で 、慰めた 。その小説が 、芥川賞をいただいた 。」 『中上健次電子全集4』所収<ref>『エレクトラ 中上健次の生涯』高山文彦</ref>}} で第74回[[芥川龍之介賞|芥川賞]]を受賞する。戦後生まれで初めての受賞者であった。
 
=== 人気作家として===