「扇谷上杉家」の版間の差分
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やがて後北条氏は武蔵への侵攻を開始し、[[大永]]4年([[1524年]])に[[上杉朝興]](上杉朝良の甥で次の扇谷家当主)は江戸城から川越へ逃れる。[[甲斐国|甲斐]]の[[武田信虎]](信直)は両上杉氏と同盟して後北条氏と対決した。扇谷朝興は[[天文 (元号)|天文]]2年([[1533年]])に信虎嫡男の[[武田信玄|武田晴信]](後の信玄)に娘を嫁がせて婚姻を結んでいたが、武田信虎は扇谷朝興死去の翌天文7年([[1538年]])に後北条氏と和睦して離反している。
扇谷朝興の子[[上杉朝定 (扇谷上杉家)|上杉朝定]]は山内家と和解して後北条氏との戦いに臨むが、天文15年([[1546年]])[[河越城の戦い|河越夜戦]]で戦死(異説あり)し、扇谷家は滅亡した。
扇谷家の名跡は一族の[[上杉憲勝]]が継ぎ、[[永禄]]4年([[1561年]])山内家の家督と関東管領職を継承した[[越後国|越後]]の長尾景虎([[上杉謙信]])によって[[松山城 (武蔵国)|武蔵松山城]]主に据えられるが、永禄6年([[1563年]])に後北条氏に降伏した。その後の動向は詳らかではない。
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