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藩主家は[[分部氏]]である。分部氏は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]、[[伊勢国]]中部を領していた[[長野工藤氏|長野氏]]の[[長野豊藤]]の五男・[[分部祐成]]から始まる一族である。[[分部光嘉]]のとき、[[尾張国|尾張]]の[[織田信長]]による伊勢侵攻が始まり、光嘉は一族の多くが信長に反抗する中で恭順を誓ったため、信長は弟の[[織田信包]]を養嗣子として迎えることで長野氏と分部氏の存続を許した。
 
光嘉は信包の命を受けて[[元亀]]元年([[1570年]])より伊勢上野城を築城し、[[天正]]8年([[1580年]])に城主となった。翌年の信長による伊賀攻めにも参戦して功を挙げた。信長没後も信包に仕えたが、信包が[[文禄]]3年([[1594年]])に[[近江国|近江]]に減移封されると、光嘉は信包のもとから去って[[豊臣氏]]の家臣となった。そして[[慶長]]3年([[1598年]])7月には1万石の[[大名]]となって諸侯に列したのである
 
信長死後の直後から[[徳川氏]]とも親密な関係にあったため、光嘉は慶長5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]では東軍に与した。伊勢に侵攻してきた西軍の[[毛利秀元]]や[[吉川広家]]らと戦う。の大軍に対し、光嘉は上野城を放棄し[[富田信高]]の[[安濃津城]]に入城、共に善戦したが負傷したために城を開城して[[高野山]]に上った。しかし関ヶ原の戦いの後、[[徳川家康]]は光嘉の戦功を賞して1万石を加増の上で大名に復帰することを許したのである。そしてここに、伊勢上野藩が立藩したのである
 
しかし関ヶ原のときの戦傷がもとで、光嘉は慶長6年に死去した。光嘉の長男・[[分部光勝]]は早世していたため娘婿に当たる[[長野正勝]]養子子・[[分部光信]]が後を継いだ。光信は[[二条城]]や[[駿府城]]の普請、[[大坂の役]]で功を挙げたため、[[元和 (日本)|元和]]5年([[1619年]])に近江[[大溝藩徳川頼宣]]が[[紀伊国]]に移封入るなりここに伊勢の分部家の領地である上野藩は廃藩となった。そし領も全その所領は、[[紀伊徳川御三家|御三]][[紀州藩]]領に編入されることとなったのである
 
光信は[[近江国]][[大溝藩]]に移封となり、伊勢上野藩は廃藩となった。
 
== 歴代藩主 ==