「広島原爆で被爆したアメリカ人」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
286行目:
* [[スタンフォード大学]]の歴史学部の[[バートン・バーンスタイン]]教授は原爆投下の直前、アメリカはイギリス情報部から「広島にアメリカ人捕虜がいる」と通告を受けていたがこれを無視され、アメリカ戦略空軍司令部の極秘電報(45年7月30日付)によると同司令部は長崎にはアメリカ人捕虜収容所があることを確認、ワシントンに打電されたが、投下は強行された。結局、長崎の原爆は目標を少しずれたため、約1400人のアメリカ人捕虜は助かった。アメリカ政府が被爆死したアメリカ兵捕虜のことを秘密にしていた理由について、同教授は「アメリカ国民の大半が支持した原爆投下でアメリカ兵が殺されていたとなれば、世論は批判に変わり、第2次大戦直後の冷戦激化の中での核戦略に重要な影響をもたらす、と懸念したからではないか」と語り、「一般市民はもちろん、味方の軍人まで犠牲にしても平気な“戦争の狂気”を告発したい」と述べている<ref>”原爆投下、市民殺りくが目的 米学者、極秘文書で確認”朝日新聞(1983年8月6日) </ref>。「政府はある時点から認めるようになりましたが名前は公表していません、政府は自分にって不都合なことは公表しないものです。」と電話で応じている<ref>NNNドキュメント「隠された被爆米兵 ~ヒロシマの墓標は語る~」 </ref>。
* 広告代理店に勤めていたバリー・フレシェットは自身の叔父が被爆したSB2Cヘルダイバー乗務員ノーマン・ブリセットと親友であることを知った<ref name="nippon20160524" />。そこで被爆米兵のドキュメンタリー映画の制作を開始した<ref name="nippon20160524" />。その制作の中で長年研究を続けている森重昭の存在を知り、森の全面的な協力により映画『Paper Lanterns(灯篭流し)』を完成させた<ref name="nippon20160524" /><ref>{{cite web|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=42283|title=被爆死の米捕虜追う 広島 米男性ら映画撮影|publisher=中国新聞|date=2015-03-24 |accessdate=2017-07-01}}</ref>。この映画がアメリカ政府関係者の目に止まり、2016年[[バラク・オバマの広島訪問]]において森が参列することになり、オバマと森が抱き合うシーンへと繋がった<ref>{{cite web|url=http://www.nippon.com/ja/people/e00108/|title=オバマ大統領、広島訪問の舞台裏|publisher=nippon.com|date=2016-12-06 |accessdate=2017-07-01}}</ref>。
* 長崎市の福岡俘虜収容所第14分所に収容された捕虜たちは、三菱重工長崎造船所で働かされ、第14分所は敗戦時、オランダ人152人・オーストラリア人24人・イギリス人19人の195人を収容し、原爆で8人が死亡した。
 
== 脚注 ==