削除された内容 追加された内容
m カテゴリの一部変更
句読点、文脈修正
21行目:
}}
 
'''X-1'''(エックス-ワン)は、[[日本]]の[[プロレス]]団体だった[[WJプロレス]]が主催した[[総合格闘技]]大会。

[[2003年]][[9月6日]]、[[神奈川県]][[横浜市]]の[[横浜文化体育館]]で開催された。
 
== 大会概要 ==
プロレス団体の主催であるが、ルールはいずれも[[総合格闘技]]ルールである。[[ブライアン・ジョンストン]]、[[マサ斎藤]]、[[長州力]]が大会をプロデュースした<ref>[https://web.archive.org/web/20030811090904/http://sportsnavi.yahoo.co.jp/fight/other/column/200307/0710sn_04.html 長州「逆方向の"ど真ん中"行く」 健介「プロレスがNO.1じゃないと」] スポーツナビ 2003年7月10日(インターネット・アーカイブによるキャッシュ)</ref>。試合場は6.5メートル四方のリングに高さ約180cmの四角形の金網(ケイジ)を設置したものが使用された。試合時間を3分3ラウンド(第8試合のみタイトルマッチとして3分5ラウンド<ref>[https://web.archive.org/web/20030911090733/http://sportsnavi.yahoo.co.jp/fight/other/column/200309/0905sn_03.html 健介 総合でもラリアットで倒す X-1へ武者震い] スポーツナビ 2003年9月5日(インターネット・アーカイブによるキャッシュ)</ref>)と非常に短く設定し、膠着状態には10秒程度でブレイクをかけイエローカードを提示し、カード3枚で失格となる等、アグレッシブさをより強調させる大会となった<ref>[https://web.archive.org/web/20030904175329/http://sportsnavi.yahoo.co.jp/fight/other/column/200309/0903sn_03.html 健介も金網に身震い X-1のケージを披露] スポーツナビ 2003年9月3日(インターネット・アーカイブによるキャッシュ)</ref>
 
15歳での総試合時間を3分3ラウンド(第8試格闘技デビュー戦となる[[中嶋勝彦]]対戦相手みタイトルマッチとして当初は3分5ラウンド<ref>[https://web.archive.org/web/20030911090733/http://sportsnavi.yahoo.co.jp/fight/other/column/200309/0905sn_03.html 健介 総合でもラトで倒す X-1へ武者震い] スポーツナビ 2003年9月5日(インターネットアーカイが予によるキャッシュ)</ref>)と非常に短く設されていたが膠着状態には10秒程度での負傷のため対戦相手がジェソン・"ゴクをかけてイエロルデンボイ"・ドを提示し、カード3枚で失格となる等、アグイに変更ッシブを強調させるルールとなった<ref>[https://web.archive.org/web/2003100607275720030904175329/http://sportsnavi.yahoo.co.jp/fight/other/column/200308200309/0826sn_050903sn_03.html X-1がK-1に招待状「サップ健介も金網身震い X-1のケージ見てほしい」披露] スポーツナビ 2003年89263日(インターネット・アーカイブによるキャッシュ)</ref>。
 
15歳での総合格闘技デビュー戦となる[[中嶋勝彦]]の対戦相手として、当初はリキッド・ロブが予定されていたが、ロブの負傷のため対戦相手がジェイソン・"ゴールデンボーイ"・レイに変更された<ref>[https://web.archive.org/web/20031006072757/http://sportsnavi.yahoo.co.jp/fight/other/column/200308/0826sn_05.html X-1がK-1に招待状「サップにX-1を見てほしい」] スポーツナビ 2003年8月26日(インターネット・アーカイブによるキャッシュ)</ref>。
 
ファイトマネーとは別に、勝利者賞およびKO賞が用意された。
 
== 背景 ==
当時[[総合格闘技]]イベント[[PRIDE (格闘技イベント)|PRIDE]]が人気を博していたことを背景に、興行の不振に悩んでいた[[WJプロレス]]が打開策として開催。WJプロレスの[[永島勝司]]専務取締役は、いずれ回を重ねて[[東京ドーム]]で開催できるようなビッグイベントに育てる意向だったという。しかし、会場は5割の入りで空席が目立ち、内容的にもイベント中に金網が外れたり、[[審判員|レフェリー]]が不手際を見せるなど運営に関する問題点もいくつか存在した。こうした不手際や出場した選手も無名でレベルが低かったことなどが酷評を受け<ref>後に[[UFC]]のトップ戦線で活躍する[[ジョン・フィッチ]]など大会後に結果を残した選手も出場しているものの、出場した当時は無名であった</ref>、大会は1度のみの開催で失敗に終わった。永島勝司は失敗の理由を、プロレス団体で格闘技のノウハウがないにもかかわらず、ジョンストンからマサ斎藤に話を持ちかけられたのが5月で準備期間が4ヶ月しかなかったことを挙げている。興行的な失敗のみならず、プロデューサーの立場にありながら、一言もコメントを残さずに会場を後にした長州力の態度に、準備不足のまま出場した[[佐々木健介]]は激怒し、団体内に禍根を残すことにもなった<ref>永島勝司『地獄のアングル プロレスのどん底を味わった男の告白』[[イースト・プレス]]、2005年、p139-p169</ref>。
当時、総合格闘技イベント「[[PRIDE (格闘技イベント)|PRIDE]]」や「[[K-1]]」が人気を博していたことを背景に、興行の不振に悩んでいた[[WJプロレス]]が打開策として開催した興行である。WJプロレスの[[永島勝司]]専務取締役は、いずれ回を重ねて[[東京ドーム]]で開催できるようなビッグイベントに育てる意向だったという。
 
しかし、観客は5割の入りで空席が目立ち、内容的にもイベント中に金網が外れたり、総合格闘技に慣れない[[審判員|レフェリー]]が不手際を見せるなど、運営に関する問題点もいくつか存在した。こうした不手際や、出場した選手も無名でレベルが低かったことなどが酷評を受け<ref>後に[[UFC]]のトップ戦線で活躍する[[ジョン・フィッチ]]など大会後に結果を残した選手も出場しているものの、出場した当時は無名であった</ref>、大会は1度のみの開催で失敗に終わった。
 
当時[[総合格闘技]]イベント[[PRIDE (格闘技イベント)|PRIDE]]が人気を博していたことを背景に、興行の不振に悩んでいた[[WJプロレス]]が打開策として開催。WJプロレスの[[永島勝司]]専務取締役は、いずれ回を重ねて[[東京ドーム]]で開催できるようなビッグイベントに育てる意向だったという。しかし、会場は5割の入りで空席が目立ち、内容的にもイベント中に金網が外れたり、[[審判員|レフェリー]]が不手際を見せるなど運営に関する問題点もいくつか存在した。こうした不手際や出場した選手も無名でレベルが低かったことなどが酷評を受け<ref>後に[[UFC]]のトップ戦線で活躍する[[ジョン・フィッチ]]など大会後に結果を残した選手も出場しているものの、出場した当時は無名であった</ref>、大会は1度のみの開催で失敗に終わった。永島勝司は失敗の理由を、プロレス団体で格闘技のノウハウがないにもかかわらず、ジョンストンからマサ斎藤に話を持ちかけられたのが5月で準備期間が4ヶ月しかなかったことを挙げている。興行的な失敗のみならず、プロデューサーの立場にありながら、一言もコメントを残さずに会場を後にした長州力の態度に、準備不足のまま出場した[[佐々木健介]]は激怒し、団体内に禍根を残すことにもなった<ref>永島勝司『地獄のアングル プロレスのどん底を味わった男の告白』[[イースト・プレス]]、2005年、p139-p169</ref>。
 
== 試合結果 ==
74 ⟶ 83行目:
[[Category:2003年の総合格闘技]]
[[Category:WJプロレス]]
[[Category:長州力]]
[[Category:2003年の日本のスポーツ]]
[[Category:横浜市のスポーツ競技大会]]