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襄陽での統治: 誤字修正
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ところが祝宗、康泰はその待遇に不満を持ち、徐達と共に武昌([[湖北省]][[武漢市]])攻略に加わるものの、反乱を起こした(祝宗、康泰もまた、苗族だったらしい<ref name="kawabata"> 川越泰博著『明史』(中国古典新書続編28)明徳出版社、2004年 ISBN 489619828X。</ref>)。彼らは船で女児港から取って返し、夜に洪都府を攻撃した。鄧愈は側近数十騎を引きつれ逃走するが、そのほとんどが討たれてしまい、最後には養子の馬を譲り受け、命からがら応天府に逃げ込んだ。朱元璋はすぐに徐達に軍を返すように命じ、鄧愈、朱文正と共にこれを鎮圧させた。
 
== 鄱陽湖の戦いと掃討戦に加わる ==
その翌年の[[1363年]]、陳友諒は兵60万を従えて、大船団で洪都府を攻撃する。いわゆる[[ハ陽湖の戦い|鄱陽湖の戦い]]である。陳友諒は洪都府を数百重に包囲した。鄧愈は洪都府の撫州門を守備した。陳友諒は自ら軍を指揮して城壁を破壊するが、鄧愈はこれを修復しつつ防戦にあたった。陳友諒軍の攻撃はますます激しくなり、3ヶ月にもおよんだ。その後、ようやく朱元璋が援軍にかけつけ、陳友諒軍を破り、さらに敵の本拠地武昌まで落とした。