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'''中越戦争'''(ちゅうえつせんそう、{{vie|v=Chiến tranh biên giới Việt-Trung|hn=戰爭邊界越-中|f=h}}、{{lang-en|Sino-Vietnamese War}})は、[[中華人民共和国]]と[[ベトナム|ベトナム社会主義共和国]]の間で、[[1979年]]に行われた[[戦争]]である。
原因となった[[ベトナム・カンボジア戦争]]とそれに伴う[[カンボジア内戦]]とあわせ
== 概要 ==
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ベトナムはカンボジアから亡命していた[[クメール・ルージュ]]の軍司令官[[ヘン・サムリン]]たちを支援するという形でカンボジアに侵攻し、1979年1月に[[プノンペン]]を攻略、ヘン・サムリンによる親ベトナムのカンボジア政権を樹立した。ポル・ポトは密林地帯に逃亡しポル・ポト政権は崩壊した。カンボジア側からすれば、ベトナムがインドシナの覇権を握る野望を持っているという危惧が、現実のものとなったのである。一方、当時のベトナム政府にとっては、カンボジアとの未確定の国境問題、ポル・ポト政権が、カンボジア領内のベトナム系住民への迫害を含む恐怖政治を行い、小規模だが繰り返されるベトナムへの侵攻・挑発は看過できないことであった。
ポル・ポト政権はソ連ではなく、中国から支援を受けていた<ref>Storey, Ian (April 2006). "China's tightening relationship with Cambodia". China Brief. 6 (9). </ref>。当時、[[3つの世界論]]からソ連を敵視した中国は、[[中ソ国境紛争]]ではソ連軍と交戦するなど対立関係にあった([[中ソ対立]])。中国にしてみれば、[[第一次インドシナ戦争]]とベトナム戦争で[[毛沢東]]時代の中国から支援を受けたベトナム政府が中国から援助された武器も使って、中国の友好国であるカンボジアのポル・ポト政権を崩壊させたことは、「恩を忘れた裏切り行為」であった。また、統一ベトナム成立後の社会主義化政策は旧南ベトナム地域の経済で力を持っていた中国系住民([[華僑]]、[[華人]])を追放したことも中国を戦争に駆り立てた<ref name=time1999/>。さらに[[1978年]]11月3日にベトナムがソ連と[[ソ越友好協力条約]]を結んだことも中国を刺激し<ref>Scalapino, Robert A. (1982) "The Political Influence of the Soviet Union in Asia" In Zagoria, Donald S. (editor) (1982) Soviet Policy in East Asia Yale University Press, New Haven, Connecticut, page 71.</ref>、中国にとってソ連の同盟国支援を試す狙いも中越戦争にあった<ref>Elleman, Bruce A. (2001). Modern Chinese Warfare, 1795–1989. Routledge. p. 297. ISBN 0415214742.</ref>。中国はソ連との直接戦争にも備えてソ連との国境から警報で民間人を避難させ<ref>Chang Pao-min, Kampuchea Between China and Vietnam (Singapore, Singapore University Press, 1985), 88–89.</ref>、大部隊を駐留させて開戦の準備
1979年1月28日から2月5日にかけて[[アメリカ合衆国]]を訪問した鄧小平はベトナムに懲罰的軍事行動を行う用意があることを[[アメリカ合衆国大統領]]の[[ジミー・カーター]]に示唆していた<ref name=time1999>{{Cite news|url=http://content.time.com/time/world/article/0,8599,2054325,00.html|title=A Nervous China Invades Vietnam|newspaper=[[TIME]]|date=1999-09-27|accessdate=2019-05-26}}</ref>。2月16日にソ連との[[軍事同盟]]であった[[中ソ友好同盟相互援助条約]]は期限切れとなり、鄧小平は[[アフガニスタン]]と[[モンゴル人民共和国]]からのソ連軍の撤退などを受け入れない限り条約を更新しないことを表明した<ref>Joseph Y.S. Cheng "Challenges to China's Russian Policy in Early 21st Century." in: Journal of Contemporary Asia, Volume: 34 Issue: 4 (November 1, 2004), p 481</ref>。
== 戦況の推移 ==
{{ベトナム}}
:1979年[[1月1日]]以降、中国は56万人の兵隊をベトナム国境に集結させ威圧を開始。[[2月15日]]、中国共産党最高機関の[[中国共産党中央委員会副主席|中央委員会副主席]]の[[鄧小平]]は「同盟国カンボジアへの侵攻と同国内の中国系華人の追放(ベトナム側はこれを否定)」を理由とし、「ベトナムに対する懲罰的軍事行動」を正式発表することをもって宣戦布告を行う。次いで[[2月17日]]、中越国境地帯全域から1500門の重砲による砲撃を行った後、[[ラオカイ]]、[[カオバン]]、[[ランソン]]各市街の占拠を第一目標として、10個軍30万名からなる軍勢をもって西部・北部・東北部の三方面からベトナム国境を侵犯した。
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:中国ではこの戦争と80年代の国境紛争とを併せて「対越自衛反撃戦」と呼び、ソ連・ベトナム連合の侵攻を恐れての行動と主張している。この時期、ベトナム軍主力はカンボジアにあり、とくに西部には第316歩兵師団、第345歩兵師団を中心とした正規軍2個師団ほど(約2万人)と民兵しかいなかったが、西部に限らずこの民兵は[[ベトナム戦争]]において米軍に勝ちベトナムを統一した主力退役兵を再集した部隊であったために、実戦経験が豊富であり、さらにベトナム戦争時の大量のソ連製や中国製の長距離砲を含む各種の武器、弾薬も確保していた。そればかりでなく、旧[[南ベトナム]][[ベトナム共和国軍|政府軍]]や[[ラオス内戦]]当時の右派[[ミャオ族]]から接収したアメリカ製兵器([[M16A1]]アサルトライフル、[[M101 105mm榴弾砲]]、[[M114 155mm榴弾砲]]、[[M113装甲兵員輸送車]]、[[M41軽戦車|M41ウォーカー・ブルドッグ]]、[[M48パットン]]、[[UH-1 (航空機)|UH-1 イロコイ]]汎用ヘリ、[[F-5 (戦闘機)|F-5 フリーダムファイター]]軽戦闘機、[[A-37 (航空機)|A-37 ドラゴンフライ]]軽攻撃機、[[A-1 (航空機)|A-1 スカイレイダー]]攻撃機など)の大半も使用可能であり、正規軍に匹敵する精鋭が揃っていた。
:[[中国人民解放軍]]は、国産の[[62式軽戦車]]と[[T-54]]中戦車をライセンス生産した[[59式]]中戦車を主力にベトナム各地に侵攻したが、[[ソ連]]から供与された[[RPG-7]]対戦車ロケット砲や[[9M14]]対戦車ミサイルといったベトナム軍の対戦車兵器により多数が撃破され、またベトナム国境付近は地雷原になっていたために、[[人海戦術]]を用いてさえ歩兵を進めるのは困難だった。そのため中国軍は軽戦車から[[69/79式戦車|69式戦車]]といった
:[[文化大革命]]の悪影響や兵站等の準備不足に加え、初期の戦闘で中国軍の損害を大きくした原因の一つにベトナム軍の長距離砲(例えば第3歩兵師団ではソ連製の122mm長距離榴弾砲([[M-30]]か[[D-30]]と思われる)を使用していたことが確認されている)があり、加えてベトナム軍の砲兵陣地は強固で、それを潰さない限りベトナム軍の防衛線を突破できない事が明白であったため、中国軍は[[対砲兵レーダー]]をも使用した。対するベトナム軍は、兵力において圧倒的に勝る中国軍の背後機動を防ぐため、複数の陣地を構築し、敵に損害を与えつつ後退する縦深陣地戦を多用した。中国軍はその後、主力を欠くベトナム軍の後退に合わせて進軍し、[[2月25日]]に[[カオバン]]、[[2月26日]]に[[ラオカイ]]を、[[3月5日]]にはベトナム東北部の要所[[ランソン]]を占領することに成功し、ベトナム北部の五つの省を制圧したが、野戦軍はその過程で大きな被害を受けており、支払った代償は多大であった。一方、ベトナム軍は包囲されることなくランソンから後退し、南方に約100km離れたハノイ郊外に構築された巨大陣地に入った。ハノイ市民も陣地構築を手伝い、軍とともに小銃や対戦車火器を抱いて陣地に入り、決戦の構えをみせた。
:ランソンを中国軍が占領したその日の夜、ついにカンボジア方面に展開中だったベトナム軍主力が合流を開始し、ハノイ郊外の巨大陣地には5個師団が入った。ベトナム軍主力と軍事衝突すれば、野戦軍のさらなる被害増大と占領地の維持が危うくなることから、直ちに中国中央軍事委員会は撤退を決定、翌日の[[3月6日]]の「ベトナムへの軍事的懲罰の完了」宣言とともに、中国軍に対して撤退を命じた。撤退を始めた中国軍に対してベトナム軍主力は追撃を開始するも、中国軍は占領していた省から撤退するにあたり、
:当時の装備の面ではベトナム軍は、
:両国の戦果/被害報告が一致しないこともあり、世界各国では現在も中越戦争の結果についての分析が続いてはいるが、中国にとって
:中国は短期間でベトナムを制圧できると考えていたにもかかわらず、自国の指揮系統が内部崩壊することを全く想定していなかった。この戦争の犠牲者に関しては、中国人民解放軍の昆明軍区の報告書である「対越自衛反撃戦総結」では2月17日から2月27日までにベトナム軍1万5000人を殲滅し、2月28日から3月16日までに3万7000人を殲滅したと主張し、自軍の戦死者は6954人戦傷者は1万4800人ほどだと報告している。一方ベトナム国防省の軍事歴史院が編集した「ベトナム人民軍50年 (1944-1994)」では60万人の中国軍の内2万人が戦死し、4万人が負傷し、合わせて1割の死傷者が出たと記している。
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== 戦後 ==
毛沢東死後の権力闘争を争っていた鄧小平は[[朝鮮戦争]]以来の大規模なこの戦争を主導したことで確固たる権力基盤を確立したとされる<ref>French, Howard W. (March 1, 2005). "Was the War Pointless? China Shows How to Bury It". The New York Times.</ref>。また、再び中国に亡命してきた[[ノロドム・シハヌーク]]を保護し<ref>{{Cite news|url=https://www.scmp.com/news/china/article/1062009/xi-jinping-mourns-chinas-great-friend-sihanouk|title=Xi Jinping mourns 'China's great friend' Sihanouk|newspaper=[[サウスチャイナ・モーニング・ポスト]]|date=2012-10-16|accessdate=2019-05-26}}</ref>、シアヌークにポル・ポトおよび[[親米]][[右派]]の[[ソン・サン]]との共同戦線を強いたことで設立させた{{仮リンク|民主カンプチア連合政府(CGDK)|en|Coalition Government of Democratic Kampuchea}}を支援することにより、ベトナムの影響力伸長を嫌っていた[[東南アジア諸国連合|ASEAN]]諸国と中国を関係改善させることに鄧小平は成功した<ref>MacFarquhar, Roderick (1991). The People's Republic, Part 2. The Cambridge History of China. Cambridge University Press. pp. 447–449.</ref>。また、中国は[[フルロ]]などベトナム国内の[[少数民族]]による反政府活動を支援した<ref>K. K. Nair (1 January 1984). ASEAN-Indochina relations since 1975: the politics of accommodation. Strategic and Defence Studies Centre, Research School of Pacific Studies, Australian National University. p. 181.</ref><ref>Mother Jones (1983). Mother Jones Magazine. Mother Jones. pp. 20–21. ISSN 0362-8841.</ref><ref>Edward C. O'Dowd (16 April 2007). Chinese Military Strategy in the Third Indochina War: The Last Maoist War. Routledge. pp. 70–186. ISBN 978-1-134-12268-4.</ref><ref>Far Eastern Economic Review. July 1981. p. 15.</ref><ref>Jonathan Luxmoore (1983). Vietnam: The Dilemmas of Reconstruction. Institute for the Study of Conflict. p. 20.</ref>。これらにより中越の緊張関係は続き、[[1979年]]から1989年にかけては[[中越国境紛争]]や[[赤瓜礁海戦]]などが引き起こされ、敗れたベトナムは、中国にとって有利な条件での国境線画定を余儀なくされた。結局、中国の支配地域が増すこととなった。
しかし、1989年には、カンボジアに派遣されていたベトナム軍に対し、[[ベトナム共産党]]書記長の[[グエン・ヴァン・リン]]は撤退を命じた。これはCGDKを支援してきた中国やASEAN諸国との関係改善の糸口となった。[[1990年]]9月3日、リン書記長は[[ドー・ムオイ]]首相、[[ファム・ヴァン・ドン]]元首相と共に、秘密裏に中国の[[四川省]][[成都市]]を訪問し、[[江沢民]]総書記と会談した。この訪問は、中越戦争以来初めてのベトナム指導者の訪中であり、中越戦争時の捕虜交換や国境地帯の非武装化など国交正常化の基本条件で合意することとなった<ref>坪井善明 『ヴェトナム―「豊かさ」への夜明け』26頁 岩波新書、1994年 ISBN 9784004303442</ref>。
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