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=== 蜀軍の中枢へ ===
その後は北伐に従軍し、中監軍・[[征西将軍]]に昇進した。[[234年]]、諸葛亮の死後は成都に帰還し、右監軍・輔漢将軍を授けられた。また諸軍を指揮・統率することを許され、平襄侯に進封された。
[[238年]]、諸葛亮の後を継いだ[[大将軍]][[蒋琬]]は、魏征伐の準備のため大軍指揮を執って漢中に駐屯し、姜維もそれに従軍した。その後、姜維は司馬に任命され、一軍指揮を執って何度も西方に侵入した。[[240年]]、羌族の[[迷当]]の反乱に呼応して隴西に侵攻したが、郭淮に鎮圧されたため撤退した。[[243年]]、蒋琬は北伐を断念して主力軍を漢中から撤退させた。その際、姜維を鎮西大将軍・涼州刺史に任じて北方への備えに残した。[[247年]]には、[[衛将軍]]・[[録尚書事]]と昇進を続け、軍事の中枢を担うようになった。
 
同年、&#x6c76;山での異民族の反乱を制圧すると、[[隴西郡]]に進出して魏の[[郭淮]]・[[夏侯覇]]らと戦い、これに勝ち<ref>『華陽国史』維出隴西。與魏將郭淮、夏侯霸戰,剋之</ref>この地の異民族を味方に付けた。涼州の胡王である白虎文等が民衆を率いて降ってきたため、これを繁県に住まわせた。汶山の平康夷が反したため、姜維はこれを討ち平げた。姜維は還ると、節を假された。[[249年]]、姜維は再び西平に出兵したが勝利を得ることなく撤退した。姜維は、西方の風俗に通じていることや自らの才能と武勇を恃みとし、大規模な北伐軍を起こして諸葛亮の遺志を遂げたいと願っていた。だが、蒋琬の後任である大将軍[[費イ|費&#x7995;]]は賛同せず、姜維に一万以上の兵を与えなかった。[[習鑿歯]]の『漢晋春秋』によると、費&#x7995;は姜維に対し「我々の力は[[丞相]](諸葛亮)に遥かに及ばない。その丞相でさえ[[中原]]を定める事が出来なかったのだ。ましてや我々に至っては問題外である。今は内政に力を注ぎ、外征は人材の育成を待ってからにすべきだ」と語っていたという。