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海外演奏は、1970年以来、アメリカ合衆国、ソ連、フランス、スイス、ドイツ、東南アジア、エジプト、中国、南米、韓国に及んでいる。その他、[[ウィーン楽友協会|ウィーン楽友協会ホール]]、[[シドニー・オペラハウス]]、[[コンセルトヘボウ|アムステルダム・コンセルトヘボウ]]、[[シンフォニーホール|ボストン・シンフォニーホール]]、[[:en:Municipal House|プラハ・スメタナホール]]、[[マドレーヌ寺院|パリ・マドレーヌ寺院]]などでも指揮を行っている。
2003年2月7日から、2012年まで[[山田耕筰]]、[[齋藤秀雄]]、[[朝比奈隆]]に次ぐ第4代[[日本指揮者協会]]会長を務めた。
==エピソード==
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*九州大学法学部在学中、荒谷はもともと弁護士志望であったが、九大フィルの宮崎での演奏会において、招待児童の中に三重苦の生徒たちがおり、当初は楽員も荒谷も、この子たちがどのようにして音楽を感知できるのかと不思議に思っていた。音楽の感動は、聴覚と視覚がなくては享受できないと思っていたからである。しかし、この三重苦の生徒たちは、座している床板から伝わる微妙な振動によって、音楽を見事に享受していた。音楽は、そこから生徒たちの感応へ見事に溶け入って、生徒たちが輝かしい表情となっているのを荒谷は見た。演奏終了後、生徒たちの拍手を、荒谷は泣きたい思いで受け取っていた。この時、荒谷の体を強い衝撃が貫き、プロ指揮者の道を志すことを決意したという。
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*1955年に[[ワルシャワ]]で開催された[[世界青年学生祭典]]に、日本代表の一人として出席したが、そこでのコンサートにおいて歌われた、ポーランド西南部の[[シレジア]]地方の民謡である『シュワ・ジェヴェチカ』(Szła dzieweczka)を荒谷が採譜し、同じく参加者であった[[東大音感合唱団]]のメンバーが、帰国後にそれに日本語の歌詞をつけて紹介した。これが現在、邦題『[[森へ行きましょう]]』として知られる歌である<ref>歌詞内容に関しては[[黒田龍之助]](『チェコ語の隙間』[[現代書館]] 2015年pp.43-45)が詳しい。</ref>。
== 出典・脚注 ==
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