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{'''桜井 勉'''(さくらい つとむ、[[1843年]][[10月6日]]([[天保]]14年[[9月13日 (旧暦)|9月13日]]) - [[1931年]]([[昭和]]6年)[[10月12日]])は、[[明治]]時代の行政官。[[日本]]の[[天気予報]]の創始者とされる<ref name="toyooka" />。▼
▲'''桜井 勉'''(さくらい つとむ、[[1843年]][[10月6日]]([[天保]]14年[[9月13日 (旧暦)|9月13日]]) - [[1931年]]([[昭和]]6年)[[10月12日]])は、[[明治]]時代の行政官。[[日本]]の[[天気予報]]の創始者とされる。
== 略歴 ==
[[画像:Izushi Toyooka Sakurai Tsutomu01s4592.jpg|thumb|200px|[[出石]]の生家跡]]
[[出石藩]]の儒官・桜井石門の長男として[[出石町]]伊木(現・[[兵庫県]][[豊岡市]])に生まれた。
1870年に[[出石藩]]大参事となる<ref name="toyooka" />。翌年には[[出石県]]権大参事となり出石県廃止後は[[松山県]]権大参事となる<ref name="toyooka" />。明治新政府では内務に携わった。
1878年、[[内務省 (日本)|内務省]]地理局長に就任<ref name="toyooka" />。その後、徳島県知事、[[山梨県知事一覧|山梨県知事]]、台湾新竹知事、内務省[[神社局]]長を歴任、[[1902年]](明治35年)に退官した。[[1907年]]6月22日、[[錦鶏間祗候]]に任じられた<ref>『官報』第7194号、明治40年6月24日。</ref>。
退官後は出石に戻り、『校補但馬考』を著して[[但馬国|但馬]]の郷土史研究の基礎を築いたほか、教育振興などにつとめた。
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== 府県統廃合 ==
明治9年の府県統廃合の原案作成をしていた内務卿・[[大久保利通]]は、内務省高官で[[但馬国|但馬]]出身の桜井勉に、[[豊岡県]]と[[鳥取県]]の合併について意見を求めた<ref name="toyooka">。桜井
この意見が取り入れられ、現在の[[京都府]]と[[兵庫県]]が誕生し、一時期[[鳥取県]]は[[島根県]]と合併(鳥取県は([[1881年]])[[9月12日]]再配置)することになったと言われている。
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* [http://www.izushi.co.jp/ 出石町観光協会]
* [http://www.city.toyooka.hyogo.jp/ 豊岡市]
{{徳島県知事|官選第11代:1889-1891}}
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