「日本庭園」の版間の差分
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* 3世紀からの日本列島では国(クニ)の統合や政治的連合などが進むなかで、高塚式の墳墓を伴う[[古墳]]が造られ始めた時代と考えられ、石室の造営や石棺の製作と古墳の[[葺石]]および居館周濠の貼石などに大量の石材の使用と、大きな石材を積み上げ固い石を加工するといった技術がみられ、墳丘の造成に版築と呼ばれる工法が使用されたり、池溝の開作や築堤など大規模な土木工事が行われるようになっていた。
* 『[[日本書紀]]』にも庭園に関する記事がいくつかみられるが、庭園に関する表現は中国の典籍からの引用があり、注意を要する。記述として、たとえば紀元1世紀に在位した[[景行天皇]]4年春2月には、泳(くくり)の宮の庭をたいそう気に入り、庭にある池を金色の[[鯉]]で充たしたというくだりがある。この少し後の古墳時代には、庭園は古代から[[仏教]]世界の中心とされてきた[[須弥山]]を表す石の山のまわりに営まれているとされる。この象徴の山は7世紀にはさかんに造られたらしいことがわかっている。仲哀天皇8年春正月では周文王の徳を尊んで庶民が集まって霊沼が日ならずしてできた様子が記載され、白鳥は高々と飛んで魚は沼池に満ち跳ねるといった故事を思わせる。充恭天皇2年は一人で園に遊ぶ皇后にまがきにのぞんで内の薗になっているアララギをもとめる記事がある。宅地を区画するまがきを設け薗をつくって蔬菜を栽培したりするような実質的な庭空間が成立し、[[允恭天皇]]8年の、井の傍らの櫻華をみる、といった記事は自然環境的な美意識が確立していた段階と見て妥当とされる。
* 『[[日本書紀]]』によると、[[7世紀]]前半に在位していた[[推古天皇]]も宮の南に須弥山と呉橋のある庭を持っていたことや、7世紀後半に在位する[[
* [[厳島神社]]は、空間的特徴は海上に浮かぶ大鳥居と平舞台、本殿を結ぶ軸線に対し、曲折する回廊が取り囲み、自然に溶け込む社殿や大鳥居がアプローチにしたがって見え隠れする配置で、海を庭園の池泉に見立て、背後を囲む山岳を神体に見立てたもので、海と山を一体的に取込んだ雄大な風景が組みこまれている。対岸の[[地御前神社]]と厳島神社の対応に至っては、身をもって味わい得ても、図示することは不可能だったと、厳島神社の[[建築]]と[[庭園]]の実測を行った[[建築家]][[西澤文隆]]の言葉がある。
* [[三重県]][[伊賀市]]で発掘されている祭事の関連遺跡である城之越遺跡は後の庭園の修景意識と技術にかんする遺構を有していたため国の名勝及び史跡に指定されて保護されている。この遺跡は古墳時代前期の4世紀後半に属するとみられ、3箇所からの涌き水が合流して大溝となって集落付近を流下し、涌き水点近くは石組みや加工木材で井戸状に囲い、貼り石護岸を有する。合流地点の岬部分は大石を配していくつかは立石として景を整える様子がうかがわれている。これは後世の流の屈曲点に石を添える手法につながる工法意識であるとされる。
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