「ユーリ・アンドロポフ」の版間の差分

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一方、歴史学者ロイ・メドヴェージェフは、その著書『知られざるアンドロポフ』のなかでこう書いている。「人々はKGB議長が彼であることをほとんど知らなかった。どの国でも、情報機関を率いる人は、有名になりたいなどと思わないし、そんなことは期待できない。とくにソ連のような国ではなおさらだ」と。
 
==最高指導者として==
=== 書記長 ===
[[ミハイル・スースロフ]]の死去後、[[1982年]]5月、中央委員会書記(イデオロギー担当)に返り咲き、ブレジネフの最側近で後継者と目された[[コンスタンティン・チェルネンコ]]を追い上げていった。共産党の官僚組織を背景とするチェルネンコに対し、アンドロポフの背景には、長く議長を務めたKGBと、政治局員、国防相の[[ドミトリー・ウスチノフ]]を始めとする軍があった。同年11月のブレジネフの死去に伴い、葬儀委員長に就任し、大勢を決した。後継書記長を決める政治局会議ではウスチノフがアンドロポフを推薦したとされる。一方、正式の会議の前には根回しが済んでおり、会議ではチェルネンコ自らアンドロポフを推薦したとの説もある<ref>[[ドミトリー・ヴォルコゴーノフ]]『七人の首領』(下巻)</ref>。[[11月12日]]、ソ連共産党中央委員会書記長に就任する。[[1983年]]6月からは国家元首である[[ソビエト連邦最高会議幹部会議長|最高会議幹部会議長]]も兼任した。