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{{Otheruses|[[韓 (戦国)|韓]]王の韓信|斉王、楚王を経て淮陰侯になっ漢の三傑と称された同名人物|韓信}}
{{中華圏の人物
'''韓王 信'''(かんおう しん、? - [[紀元前196年]])は、[[秦]]末から[[前漢]]初期にかけての武将、政治家。[[楚漢戦争]]期の[[韓 (戦国)|韓]]王。[[姓]]は'''[[姫 (姓)|姫]]'''で[[氏]]が'''[[韓 (姓)|韓]]'''、[[諱]]が'''信'''である。身長8[[尺]]5[[寸]](約195cm)の長身であった。
| 名前=韓信(韓王信)
| 画像=
| 画像の説明=
| 出生=不詳
| 死去=[[紀元前196年]]
| 出身地=
| 職業=
| 簡体字=韩信
| 繁体字=韓信
| ピン音=Hán Xìn
| 注音=
| 和名=
| 発音=ハン シン
| ラテン字=
| 英語名=Han Xin
}}
'''韓 信'''(かんおう しん、? - [[紀元前196年]])は、[[秦]]末から[[前漢]]初期にかけての武将、政治家。[[楚漢戦争]]期の[[韓 (戦国)|韓]]王。[[姓]]は'''[[姫 (姓)|姫]]'''で[[氏]]が'''[[韓 (姓)|韓]]'''、[[諱]]が'''信'''である。身長8[[尺]]5[[寸]](約195cm)の長身であった。なお、漢の三傑の一人である[[韓信]]と区別するため、'''韓王信'''(かんおう しん)と呼称されており、本項も準じる
 
== 人物 ==
この人物の氏名は'''韓信'''であるが、同時代に[[劉邦]]に仕えた淮陰侯[[韓信]]がいる。淮陰侯韓信のほうが歴史上有名であることから、混乱を避けるため「韓王信」と呼称されるのが通例であり、本項も準じる。なお、[[司馬遷]]の『[[史記]]』「韓信[[盧綰]]列伝」で扱われている「韓信」は韓王信の方であり、淮陰侯る(韓信は「淮陰侯列伝」で扱われる。[[班固]]の『[[漢書]]』で「韓王信伝」の呼称が登場している(巻33、[[魏豹]][[田タン|田儋]]韓王信伝)。
 
[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]の韓の[[襄王 (韓)|襄王]]の妾腹の曾孫として生まれるが<ref>『[[全唐文]]』巻687が引く{{仮リンク|皇甫テイ|zh|皇甫湜|label=皇甫湜}}の『[[韓愈]]神道碑』によると、祖父は公子蟣虱(『史記』韓世家では「公子蟣蝨」)または公子幾瑟(『[[戦国策]]』)とする(「秦絶韓祀,蟣虱有子。継王陽翟,継王安定。」)。</ref>、まだ年少だった[[紀元前230年]]に韓が滅亡し、王族の身分を失う。
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楚漢戦争が終結して劉邦が[[皇帝 (中国)|皇帝]]となると、韓王信は[[匈奴]]への備えのため、[[太原郡]]を韓と改名してそこに遷される。間もなく匈奴が領内に侵攻し、信は[[冒頓単于]]と休戦交渉を行おうとするが、このことが裏切り行為と見なされ、やむなく匈奴に投降した。以後、匈奴の将軍として漢軍とたびたび交戦するが、[[紀元前196年]]に陳武([[柴武]])との戦いに敗れて、太子とともに斬首された。
 
もうひとりの子の{{仮リンク|韓頽当|zh|韩颓当}}は許されて、[[文帝 (漢)|文帝]]に仕えて弓高侯に封じられた。[[武帝 (漢)|武帝]]の寵臣であった[[韓嫣]]・[[韓説]]は曾孫に当たる。また、[[曹操]]に仕え[[魏]]の[[司徒]]になった[[韓曁]]はその末裔と伝えられているなど、韓王信の子孫は大いに繁栄した
 
== 脚注 ==