削除された内容 追加された内容
tmp、学区の更新、世帯数と人口、その他の追加
Narutanu (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
42行目:
[[刈谷市]]は市域を北部地区(旧[[富士松村]])、中部地区(旧刈谷町)、南部地区(旧[[依佐美村]])の3地区に分けており、今岡町は北部地区の南部に位置している。西側を[[今川町 (刈谷市)|今川町]](いまがわ)、北側を今川町や東境町(ひがしざかい)、東側を一里山町(いちりやま)、南側を一ツ木町と接している。一ツ木町との境界は[[逢妻川]]であり<ref name="大系今岡村">平凡社 (1988)、597頁「今岡村」</ref>、今川町との境界の一部は[[名古屋鉄道|名鉄]][[名鉄名古屋本線|名古屋本線]]である。
 
北西から南東に向かって走る[[国道1号]]が町内を二分しており、国道1号に並行する形で南西側に旧[[東海道]]が走っている。古くからの集落は旧東海道の沿道を中心に形成されており、[[明治時代]]末期から[[昭和時代]]初期にかけて建築された木造民家が多く残っている。南西部は逢妻川が形成した沖積低地であり、標高約2m<ref group="注">1:25,000地形図「知立」国土地理院(大正9年測量/昭和44年改測/平成13年修正測量/平成14年発行)による。</ref>の地盤に水田が広がっている。中央部から北東部にかけては沖積台地であり、標高5m-10mの地盤に住宅や野菜畑などがある。

2013年(平成25年)1月1日時点で町内には57軒の農家があるが、全世帯が149アール以下の小規模農家である<ref name="平成24年刈谷市の統計">[http://kariyacity.page-view.jp/toukei2012/pageview/data/target.pdf 平成24年刈谷市の統計]刈谷市</ref>。町の北東部には一里山町とまたがって[[トヨタ車体]]本社・富士松工場があり、かつて耕地だった土地の多くが工場用地や従業員用駐車場用地に転用された。町の南東部には一里山町とまたがって刈谷工業団地が立地している。町東部にある吹戸池からの流れはやがて暗渠となり、国道1号を越えた後に顔を出して逢妻川に注いでいる。
 
=== 小字 ===
75 ⟶ 77行目:
 
=== 中世 ===
[[空海|弘法大師]]は富士権現参詣の帰途に現在の知立・刈谷市域を訪れており、一里山町にある密蔵院は三河参弘法三番霊場である<ref group="注">遍照院(知立市弘法町弘法山)、西福寺(刈谷市一ツ木町大師)、密蔵院(刈谷市一里山町南弘法)が三河参弘法(三河三弘法)である。</ref>。芋岡が転じて今岡になったとされ<ref name="大系今岡村"/><ref name="角川今岡村">角川日本地名大辞典編纂委員会 (1989)、190頁「今岡村」</ref>、長禄3年(1459年)に書かれた[[足利義政]]袖判御教書に「参河国一木・今岡」(一木は現一ツ木町)として今岡という表記が登場する<ref name="刈谷市史 第1巻601頁">刈谷市史 第1巻、601頁</ref>。この時には大和梅茶法師の相伝の所領だったが、戦国時代に大和氏の支配が崩れたとされる<ref name="刈谷市史 第1巻601頁"/>。

[[刈谷城]]主[[水野忠重]]が緒川(現[[知多郡]][[東浦町]])[[善導寺 (愛知県東浦町)|善導寺]]檀家の20軒を東海道の南側に移住させ、天正年間(1573年-1592年)に初めて今岡が一村をなしたとされる<ref name="大系今岡村"/><ref name="角川今岡村"/>。天保3年(1832年)の村明細帳によると、五穀の他には、夏は大豆・小豆の葉、冬は菜大根を生産<ref name="刈谷市史 第2巻237頁">刈谷市史 第2巻、237頁</ref>。現在の吹戸池に相当する吹戸上池・中池・下池は当時から存在し、農業用水として使用されていた<ref name="刈谷市史 第2巻237頁"/>。村高は「寛永高附」では146石、「元禄郷帳」では198石余、「天保郷帳」と「旧高旧領」ではともに294石余であり、反別110町の大部分が田であった<ref name="角川今岡村"/>。
 
=== 近世 ===
82 ⟶ 86行目:
 
==== 洞隣寺の墓の伝承 ====
天正17年(1589年)に創立された神明社(今岡神社)が町の[[氏神]]であり<ref name="角川今岡村"/>、国道1号すぐ北側にある。旧[[東海道]]沿いには[[浄土真宗]]の乗願寺と[[曹洞宗]]の[[洞隣寺]]がある。乗願寺は天正15年(1587)の創建とされ、当初は地蔵寺といった<ref name="人力乗願寺">[http://www.jinriki.info/kaidolist/tokaido/chiryu_narumi/joganji.html 乗願寺 じょうがんじ]人力</ref>。洞隣寺は天正8年(1580年)の創建とされ、旧東海道沿いには寛政8年(1796年)の年号が刻まれた[[常夜灯]]が置かれている<ref name="人力洞隣寺">[http://www.jinriki.info/kaidolist/tokaido/chiryu_narumi/dorinji.html 洞隣寺 どうりんじ]人力</ref>。洞隣寺には「めったいくやしいの墓」と「中津藩士の墓」があり<ref name="角川今岡村"/>、墓にまつわる伝承が残されている。かつて洞隣寺に気立てのよい娘がおり、高津波村(現刈谷市中部)の医王寺で住職に恋をしたが、娘の恋はかなわずに憤死してしまった。亡骸は洞隣寺に葬られたが、この墓の上に青い火玉が浮かんだり「めったいくやしい」という声が聞こえたりしたという<ref name="LET'S GO あいち上">[http://www.lets-go-aichi.jp/hourou/2010/000477.html 東海道を行く(番外編)~刈谷市富士松界隈(上)]LET'S GO あいち</ref>。

また寛保2年(1742年)、[[中津藩]]家臣の牟礼清五郎と渡辺友五郎が今岡村を通りがかった際、遊女の話で口論となり、斬りあった末にふたりとも亡くなった。ふたりの亡骸は洞隣寺に葬られたが、二基の墓は互いから離れるように傾き、何度直しても傾いてしまった。村人が改めて手厚く葬ってからは傾かなくなったとされる<ref name="刈谷市史 第2巻563頁">刈谷市史 第2巻、563頁</ref><ref name="LET'S GO あいち上"/>。一般には上記のように語られるが、岡山大学付属図書館が所蔵している『日録』にはやや異なる記述がある。これによると、渡辺友五郎が病気で牟礼清五郎をうち果たし、自身も命を絶ったという。同伴した喜多村弥三右衛門ら4人は洞隣寺で後始末をし、友五郎の位牌には「帰真剣山智光信士霊位」という戒名が書かれている<ref name="刈谷市史 第2巻563頁"/>。
 
=== 近代 ===
88 ⟶ 94行目:
 
=== 現代 ===
1955年(昭和30年)、富士松村は[[依佐美村]]の大部分とともに[[刈谷市]]に編入され、旧今岡村は刈谷市逢見の一部となった<ref name="角川今岡村"/>。1954年(昭和29年)以降、刈谷市は工場の誘致を推し進めた<ref name="刈谷市史 第4巻305頁">刈谷市史 第4巻、305頁</ref>。田畑が広がっていた北東部の土地を刈谷市発展同盟会<ref group="注">市の有識者と市議会議員全員で構成された組織。刈谷市の総面積の4%に当たる2.11km<sup>2</sup>を工場用地として取得し、[[敷島パン]]刈谷工場、[[ブラザー工業]]刈谷工場、日本電装(現[[デンソー]])池田工場、愛知工業(現[[アイシン精機]])など数多くの工場を呼びこんだ。</ref>が買収して[[トヨタ車体]]に提供し、1964年(昭和39年)に富士松工場の操業が開始された<ref name="刈谷市史 第4巻305頁"/>。トヨタ車体富士松工場は逐次拡大され、1968年(昭和43年)には乗用車工場が完成し、1974年(昭和49年)には南東部に本社が移転している。

刈谷市公式サイトによれば、1964年(昭和39年)には[[国道1号]]に刈谷市初の[[横断歩道橋]]である今岡歩道橋が架橋された<ref>[https://www.city.kariya.lg.jp/shisei/shinogaiyo/ayumi/enkaku/60-69.html 1960年(昭和35年)~1969年(昭和44年)] 刈谷市</ref>。ただし、管理を担当する[[国土交通省]]中部地方整備局によれば、今岡歩道橋の架橋年は1971年(昭和46年)だという<ref>[https://www.cbr.mlit.go.jp/road/taisaku/plan/pdf/plan04.pdf 道路附属物等
個別施設計画(案)] 国土交通省中部地方整備局、2017年</ref>。1964年(昭和39年)10月2日にはこの国道1号を[[1964年東京オリンピック]]の聖火リレーが通過した。

町の南部、逢妻川に隣接する低地は古くから洪水が頻発していたが、1967年(昭和42年)にはこの土地に0.37 km<sup>2</sup>の刈谷工業団地(吹戸工業団地)が完成<ref name="刈谷市史 第4巻310-311頁">刈谷市史 第4巻、310-311頁</ref>。[[国道1号]]に近接する好立地を売りにし、主に名古屋市内にあった工場が進出した<ref name="刈谷市史 第4巻310-311頁"/>。1970年(昭和45年)には刈谷市逢見が4町に分かれ、旧今岡村域は西部が今岡町、東部が一里山町として独立<ref name="角川今岡村"/>。トヨタ車体富士松工場と刈谷工業団地は両町にほぼ等しく分割されている。1972年(昭和47年)に今岡地区圃場整備事業が完了<ref name="大系今岡村"/>。1988年(昭和63年)に一里山町の一部を編入し、今川町との境界を変更した<ref name="大系今岡村"/>。

2000年(平成12年)の[[東海豪雨]]では逢妻川が氾濫し、泉田町・今川町・今岡町の3町に連続している水田の大部分が冠水する被害を出した。
 
=== 行政区の変遷 ===