「二条為氏」の版間の差分
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[[寛元]]元年([[1243年]])『河合社歌合』以下、多くの[[歌合]]に出詠し、また『[[宝治御百首]]』『[[弘長百首]]』などを詠進する。[[亀山天皇|亀山上皇]]の信任が篤く、その勅を受けて[[弘安]]元年([[1278年]])に『[[続拾遺和歌集]]』を奏覧した。他にも『[[続後撰和歌集]]』以下の[[勅撰和歌集]]への200首以上の入首を始めとして、『[[新和歌集]]』([[宇都宮氏]]とその関係者の詠歌を集めたもの)以下の私撰和歌集にも多くの和歌が残る。その歌風は平明優艶と評される。『[[大納言為氏集]]』は、為氏と長男為世の詠歌を集めた後世の他撰集。[[連歌]]も能くした。[[文永]]7年([[1270年]])10月~12月の自筆日記「為氏卿記」が[[冷泉家時雨亭文庫]]に蔵されている。
同時代の他の公卿の[[日記]]によれば、為氏は廷臣としても甚だ有能だったらしく、[[公事]]に精勤している様子がわかる。また、若年期からしばしば外祖父の本拠地である[[下野国]][[宇都宮]]に下向し、[[御家人|関東武士]]とも親交を結んだという。[[宇都宮二荒神社]]に奉納された宇都宮歌人らによる『[[新式和歌集]]』は為氏(或いは父の為家)の私撰と伝えられる。
== 系譜 ==
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